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アラビア文字活字印刷の普及とムハンマド・アリー時代のブーラーク印刷所: アジア情報室通報 第7巻第3号

アジア情報室通報 第7巻第3号(2009年9月)
林瞬介(国立国会図書館アジア情報課)

1.はじめに

アラビア文字は、アラビア語をはじめイスラム圏の諸言語に用いられる文字である。この文字は筆記体のようにひとつの単語に含まれる文字を続き書きする特徴があり、続き書きを再現した活字による印刷が行われている(図1参照)。

国立国会図書館関西館アジア情報室では、アラビア文字を使用する主要な言語であるアラビア語とペルシア語の資料を合計約5,500冊所蔵している。このほか、アラビア文字の使用が廃止された1928年以前に出版されたアラビア文字表記のトルコ語(オスマン・トルコ語)資料が約220冊ある1。この中には、1720年代にイスタンブルでイブラヒム・ミュテフェッリカが開いた最古のイスラム教徒経営の印刷所で刊行された「ミュテフェッリカ版2」をはじめとして、約200年間にわたるトルコ語印刷物が含まれ、当室のアラビア文字資料の中でも特に古く貴重な資料が多い。

アラビア文字の印刷物は、19世紀の中頃まで、トルコ語使用圏(現在のトルコ共和国周辺)で最大の都市であったイスタンブルが出版の中心であった。中東最大の国家オスマン帝国の首都でもあるイスタンブルでは、トルコ語に限らず、中東の他の主要言語であるアラビア語やペルシア語の印刷物も出版され、当時の世界のアラビア文字出版の中心地のひとつであった。しかし、19世紀の前半には、トルコ語資料の主要な出版地として、イスタンブルと並んでエジプトのカイロが現れる。当室所蔵のアラビア文字資料のうち、1850年以前に出版されたことが確認できるものは27冊あるが、このうち、エジプトで印刷されたものは12冊であり、そのすべてが1832年から1840年までの9年間に出版された。これらは、カイロ郊外のブーラーク地区にあった「ブーラーク印刷所」で刊行されたトルコ語の資料である。

なぜこの時代、アラビア語圏のエジプトでトルコ語の印刷が盛んに行われたのだろうか。本稿では、アラビア文字による印刷の歴史を19世紀前半のブーラーク印刷所の創立期を中心として取り上げ、ブーラーク印刷所のアラビア語圏にとどまらない、中東・イスラム社会全体におけるその意義を概観するとともに、当館所蔵のブーラーク版を紹介したい。

2.ブーラーク印刷所前史

(1) アラビア文字活字印刷の始まり

アラビア文字の印刷は、中東・イスラム地域よりもはるかに早く、ヨーロッパにおいて開始された。

通説によれば、最古のアラビア文字印刷物は、グーテンベルクによって活字印刷技術が確立してから間もない15世紀の末から16世紀の初め頃に、ヴェネチアのパガニーノ・デ・パガニーニの印刷所で刊行されたコーランであるという3

16世紀に入ると、キリスト教の祈祷書など、アラブ人キリスト教徒向けの出版物からアラビア文字の印刷技術は定着し、後には東洋学の発展とともに、地理書、文法書、古典文学など、さまざまな非宗教文献も刊行されるようになった4

(2) 中東地域における印刷

中東地域への印刷技術の伝来自体は非常に早く、15世紀末にイベリア半島を追放されてオスマン帝国へと亡命してきたユダヤ教徒(セファルディム)が、1493年にオスマン政府からヘブライ文字で印刷を行う印刷所の開設を許可されている。その後も、アルメニア正教徒など、非イスラム教徒の間で印刷は次第に広まった。1588年には、ヨーロッパで印刷された書籍の輸入がアラビア文字のものも含めて許可されたが5、イスラム教徒たちは自分たちの手で印刷を行おうとはしなかった。

イスラム教徒が印刷技術の導入に消極的だった原因については様々な理由が挙げられている。例えば、イスラム教徒の伝統的な学問では、知識は師弟相伝の記憶によって伝えられることが重視されていたことが指摘される6

文字の美観の問題も見逃すことはできない。19世紀頃までヨーロッパで使用されていた活字はのっぺりとして不格好であり、美しい筆跡の写本を愛好するイスラム教徒の審美眼に適うものではなかった7

図1 上・ヨーロッパの活字(ドイツ、1789年) 下・中東の活字(エジプト、1832年)

図1 上・ヨーロッパの活字(ドイツ、1789年)
    下・中東の活字(エジプト、1832年)8

(3) イスラム教徒が経営する印刷所の創設

中東地域において、イスラム教徒が経営する最初の印刷所は、上述したイブラヒム・ミュテフェッリカがイスタンブルに開設した「ミュテフェッリカ印刷所」である。ミュテフェッリカは、トランシルヴァニア(現ルーマニア)のハンガリー人家庭に生まれ、後にイスラム教に改宗してオスマン政府の官人となった経歴を有する人物である。彼は、フランスへの使節団に随行した経験のある官僚サーイト・エフェンディと共同で、1726年に印刷所の効用を説いた意見書を提出し、アラビア文字文献の印刷を認める勅許(ハットゥ・ヒュマーユーン)とイスラム法学者の意見書(フェトヴァー)を得て印刷所を開いた9。この印刷所で刊行された出版物が「ミュテフェッリカ版」であり、コーランとその他の宗教書の印刷は禁止されていたものの、1742年に一旦閉鎖されるまでに辞書や歴史書など17点の出版物が刊行された。

しかし、ミュテフェッリカの印刷所創設後も、これに続く印刷所はすぐには現れなかった。第二の印刷所は50年後の1776年、イスタンブルに設立された海軍工学校の校内に開かれた10。18世紀に顕著となったオスマン帝国のヨーロッパ諸国に対する軍事的な弱体化を背景に、ヨーロッパ式の軍事改革と科学技術の導入が不可避となった結果として、オスマン帝国でも、印刷によって書物を大量生産し、知識を普及する必要性がようやく認識されたことになる。

イスタンブルを離れてアラビア語圏についてみると、18世紀にはアラブ地域の中でもアラブ人キリスト教徒の多いレバノンやシリアでアラビア文字の印刷が始まっていた。しかし、アラブ人イスラム教徒による印刷所は19世紀まで現れなかった。

3.ブーラーク印刷所の歴史

16世紀以来、オスマン帝国の属州であったエジプトに最初に印刷技術を持ち込んだのは、1798年に侵攻してきたナポレオン率いるフランス軍であった。フランス軍はイタリア遠征時にローマで接収したアラビア文字の活字をエジプトに持ち込み、エジプト人向けにアラビア語印刷物を出版したが11、1801年のフランス軍撤退とともに印刷事業は中絶した。

フランス軍の撤退後、混乱の中でエジプトの実権を掌握したのがブーラーク印刷所の創設者となるムハンマド・アリーである。1805年にエジプト総督の座に就いたムハンマド・アリーは、西洋の科学技術や制度を取り入れた大胆な改革を断行し、富国強兵を目指した。

ムハンマド・アリーは改革の基礎として西洋の知識を積極的に取得することを望み、ヨーロッパに留学生を派遣するとともに、彼らに科学技術や軍事に関する大量の書物を購入させ、書物の翻訳を行わせた。国内でも、ヨーロッパから導入された学問を教育し人材を育成するために、軍事学校をはじめとする西洋式の近代的な学校が創設された。

アラビア語圏で初めての官立印刷所は、西洋化改革の一環として、学問・知識を人々に普及するために設立が求められた。ムハンマド・アリーは、印刷所設立の準備のため、1815年にシリア系アラブ人キリスト教徒のニコラ・マサーブキーをはじめとする留学生をミラノへ派遣し、印刷技術を学ばせた12

印刷所が発足した年ははっきり確定できないが13、1821年頃にアラビア語圏において最初のイスラム教徒経営の印刷所として活動を開始したことは確かであり、最初の出版物は1822年に印刷されたアラビア語―イタリア語辞書『Dizionario Italiano e Arabo』とされている。

印刷所で使用する印刷機はミラノとパリから、インクや紙などの印刷資材は、リヴォルノとトリエステから輸入したものを使用した。活字も創立当初はイタリアとフランスから輸入した14

印刷所の職員には、イタリア人の植字工を雇い入れたが15、外国人にすべてを頼ることなく、マサーブキーをはじめとするエジプト人職員に印刷技術を学ばせた。

次章で詳しく見るように、ブーラーク印刷所では、創立当初から中東地域においてアラビア文字を使用する三大言語であるアラビア語、ペルシア語、トルコ語のすべての言語で書かれた出版物を刊行し、出版のジャンルはヨーロッパ由来の学問と、詩などの伝統的な文学・学問のすべてにわたっていた。このほか、1828年には、中東地域で初めての新聞である وقائع المصرية (『エジプトの出来事』)を創刊している16

1841年、ムハンマド・アリーはヨーロッパ列強の圧力に屈し、エジプト総督職の世襲を認められる代償に、通商の不平等関係を認めるロンドン協定を受け入れた。以後、軍隊は縮小され、西洋式学校も一部が閉鎖されて生徒数が減少したため、ブーラーク印刷所の西洋式学校向けの出版事業も低調となった17

ムハンマド・アリーの死後、ブーラーク印刷所は存続の危機を迎え18、ムハンマド・アリーの孫イスマーイール(在位1863-1879)の時代には民間に払い下げられた19

その後政府によって買い戻された印刷所は、1956年にナセル大統領によってエジプト政府印刷公社に改組され、現在もエジプトの国立印刷所として存続している。

4.初期のブーラーク印刷所の出版事業

上述のように、19世紀においてブーラーク印刷所が最も盛んに活動していたのは、1820年代の創立から1840年代までのおよそ20年間であった。この時期に、ブーラーク印刷所で刊行された出版物(いわゆる「ブーラーク版」)は、中東・イスラム地域の近代教育史、文化史、印刷史の上で意義が高く、すでに多くの研究がなされている20

以下では、主に諸研究に基づいて、初期のブーラーク印刷所の出版事業の傾向と特色を紹介する。

(1) 出版物の傾向

初期のブーラーク印刷所の出版内訳は、1842年にパリのアジア協会が出版する雑誌 Journal Asiatique に掲載された、1822年から1842年までの20年間の出版目録により知ることができる21

これによると、この時期のブーラーク版のジャンルと使用言語は表1のとおりである。

ジャンル 使用言語
トルコ アラビア ペルシア
行政学   2   2
軍事 39 9   48
産業   3   3
教育   1   1
欧州史 8 3   11
イスラム史 5     5
地理   3   3
哲学   2   2
道徳 1     1
宗教 6 6   12
神秘主義 4     4
儀式 2     2
預言者伝 6     6
宗教法 1 1   2
辞書 9 1   10
文法書   21   21
24 5 2 31
散文文学 4 2 4 10
修辞学   1   1
数学 10 6   16
自然史   1   1
地学   1   1
工学   7   7
園芸学   1   1
獣医学 1 11   12
農業 1 2   3
医学 1 14   15
百科事典   4   4
その他 3 5   8
合計 125 112 6 243

表1 1842年までのブーラーク版の内訳22

表1からうかがえるように、ブーラーク版の出版ジャンルは幅広く、使用される言語はアラビア語よりもむしろトルコ語のほうが多い。

ブーラーク印刷所を設立した主要な目的である近代的な軍事教育に必要な軍事と数学に関する出版物はトルコ語が大半を占める。当時、軍事の近代化に関してはエジプトよりもイスタンブルのオスマン帝国中央政府が先駆者であり、これらの分野の翻訳はイスタンブルでトルコ語により行われていた23。加えて、エジプトはアラビア語圏ではあるが、ムハンマド・アリー自身をはじめとしてエジプト軍の上層部にはトルコ人、アルバニア人、チェルケス人などの非アラブ系の出自を持つ者が多かった24。彼らが日常会話に用いる共通語はトルコ語であり、軍事学校の教育もトルコ語が用いられた。

一方、同じくヨーロッパから導入された知識分野であっても産業、工学、自然科学、医学、獣医学などの科学技術に関するものは大半がアラビア語である。軍医学校、軍獣医学校などの軍事関係の学校で学ばれるものを含め、こうした学問はイスタンブルでは受容が遅れていたため、ムハンマド・アリーが開いた西洋式の近代学校で科学技術を学ぶエジプト人は、トルコ語を介さずアラビア語によって直接知識を受け入れた25

イスラム社会の伝統的な学問分野では、100年前のミュテフェッリカの時代には印刷が禁止されていた宗教関係が出版の対象に含まれることが目を引く。これらの言語をみると、文法学がすべてアラビア語であるものの、他の学問はトルコ語が多い。また詩集などの文学作品もトルコ語が大半を占めた。

トルコ語出版の多さは、前述のようにエジプトの支配層にとってはトルコ語がアラビア語よりも身近であったこともあるが、後述するようにブーラーク版がイスタンブルなどのオスマン帝国中央への輸出にあてられていたことが大きな理由として考えられる。

(2) 印刷技術の特徴

上述したように、ブーラーク印刷所では当初、印刷に必要な機材をすべてヨーロッパから輸入した。しかし、活字だけは、当時ヨーロッパで用いられていたものは、美観においてイスラム教徒の読書に耐え得るものではなかった。このため、書道家サングラーフ・エフェンディ・ファーリスィーが書体作成を命じられ、活字の改良が行われた26

サングラーフは、イスタンブルでミュテフェッリカ版以来使われてきたナスフ体の活字に加えて、流麗なナスターリーク書体を再現した活字を独自に開発し、この書体はブーラーク版の大きな特徴となっている。ナスターリーク体は見出しなどの飾り文字のほか、詩集の印刷に用いられ、版面の美しいブーラーク版は出版市場で大いにもてはやされた。

図2 ナスターリーク体活字で版面が組まれた詩集

図2 ナスターリーク体活字で版面が組まれた詩集

(3) 出版の仕組み

設立当初のブーラーク印刷所における出版事業の仕組みについては、カイロの医学校で校長を務めた「お雇い外国人」のペロンがJournal Asiatique誌に寄せた書簡で述べている28

これによると、ブーラーク印刷所を利用した出版事業は、印刷費用を負担することができれば、政府だけでなく、誰でも行うことができた。出版事業者は、公教育省に出版計画を申請し、許可を得る必要がある。許可が下りると、1ページの行数、紙質、総ページ数を事前に取り決めた。数ヵ月後、印刷が終わると、公教育省は、印刷期間中に印刷所の責任者(監督官)をはじめ、校正者、校閲者、職工長、植字工などの、その本の印刷にかかわった印刷所職員の給料相当額と、印刷に用いた紙、インクなどの資材費として政府が支出した金額を算定し、これに50%を政府の純利益として上乗せした額を出版事業者から徴収した。

出版事業者は、印刷を依頼するにあたり、事前に概算見積額の半額を前払いする必要があり、また印刷遅延が生じた場合のコスト増加分も負担しなければならなかった。高い出版コストをまかなうため、主にイスタンブルやイズミル(現トルコ)など、エジプト国外の出版市場への輸出を前提とした投資目的の出版事業がもっぱら盛んになり、政府が自ら行う印刷のほうがまれなほどであった。

1840年代にはイスタンブルに印刷所が増え、ブーラークよりも安価で出版できるようになったので、ブーラーク印刷所では、輸出向けの古典の出版が落ち込んだとペロンは指摘しており29、高コストが出版事業停滞の一因となったようである。

5.アジア情報室所蔵の初期ブーラーク版

アジア情報室では、初期のブーラーク印刷所で印刷されたブーラーク版を7タイトル12冊所蔵している。国立国会図書館のアジア言語資料は、国の中央図書館として所蔵すべき基本的なものを中心として収集したものであり、アジア情報室所蔵のブーラーク版は、すべて評価の定まった古典作品で、軍事や科学技術に関する同時代の著作物は含まれない。

(1) Ravzat ül-ebrar(『篤信者の天国』)

ヒジュラ暦1248年ムハッラム月(1832年6月)刊。革装。高さ28cm、幅18cm。本文637ページ。目次あり。トルコ語。販価35ピアストル30

カラチェレビザーデ・アブデュルアズィズ・エフェンディ(1591-1658)が執筆し、メフメト4世(在位1648-1688)に献呈した人類史で、天地創造から17世紀中頃までの歴史を扱う31

請求記号Y782-A41。

(2) Zeyl-i Nâbî(『ナービーの預言者伝増補』)

ヒジュラ暦1248年ジュマーダー・アーヒラ月(1832年11月)刊。半革装。高さ27cm、幅17.5cm。本文268ページ。目次あり。トルコ語。別タイトル Zeyl-i siyer-i nebevî。

ヴェイスィー(1561-1628)が執筆した最古のトルコ語による預言者ムハンマド伝 Dürret üt-tac(『王冠の真珠』)を、有名な宮廷詩人ナービー(1642-1712)が増補したもの。『王冠の真珠』は、著者ヴェイスィーの死去によりヒジュラ暦2年(624年)のメディナにおけるイスラム教徒とユダヤ教徒の対立までで断絶しているため、本書はこれに続く部分を扱っている32

なお、『王冠の真珠』も1829年にブーラーク印刷所によって刊行されているが、当館では所蔵していない。

請求記号Y782-Y12。

(3) Ahlâk-i alâî(『崇高な道徳』)

ヒジュラ暦1248年シャウワール月(1833年3月)刊。革装。高さ27.5cm、幅17.5cm。全3巻を1冊に製本。第1巻236ページ、第2巻127ページ、第3巻52ページ。トルコ語。販価24ピアストル。

クナルザーデ・アリ・エフェンディ(1510-1572) が1564年に執筆した道徳書。全3部構成で、それぞれ道徳論、家庭の道徳、政治の道徳を扱う33

請求記号Y782-A58。

(4) Marifetname(『知識の書』)

ヒジュラ暦1251年(1835/36年)刊。革装。高さ32.5cm、幅22.5cm。本文563ページ。目次あり。トルコ語。販価76ピアストル。

エルズルム出身のイブラヒム・ハック(1703-1780)の著作で、イスラム神秘主義の思想や神学、道徳論、数学、地理学、天文学、生理学、心理学などの学問分野にまたがる諸知識を集成した百科全書的な作品。ベストセラーであったようで、ブーラーク版はヒジュラ暦1255年(1839/40年)に再版され、1914年までにカイロ、イスタンブル、カザン(現ロシア)で9版が出版された34

請求記号Y782-I14。

図3 『知識の書』。小口にカバーがついた中東特有の装丁。

図3 『知識の書』。小口にカバーがついた中東特有の装丁。

(5) Mesnevî(『マスナヴィー』)

ヒジュラ暦1251年(1835/36年)刊。ビニル革装。高さ31.5cm、幅21.5cm。全6巻。第1巻341ページ、第2巻296ページ、第3巻416ページ、第4巻459ページ、第5巻458ページ、第6巻554ページ。ペルシア語およびトルコ語。販価300ピアストル。別タイトル Mesnevî şerhi。

マスナヴィーは、イランで発達した叙事詩の形式で、13世紀にアナトリア中央部のコンヤ(現トルコ)で活動したイスラム神秘主義者でメヴレヴィー教団開祖のルーミー(1207-1273)が、自身の思想を詩の形式で著した神秘主義詩集が有名である。本書は、ペルシア語で書かれたルーミーのマスナヴィーの章句ひとつひとつを、メヴレヴィー教団員イスマイル・アンカラヴィー(?-1631)がトルコ語によって注釈したもの35

請求記号Y771-J1。

(6) Divan-i Vehbî(『ヴェフビー詩集』)

ヒジュラ暦1253年ラマダーン月(1837年12月)刊。ボード装に再製本、化粧断ち済み。高さ25cm、幅16cm。本文は20、17、43、131、16、97、61ページの7部分からなる。トルコ語。販価37ピアストル。

「詩人の王」と称せられた18世紀後半の宮廷詩人スュンビュルザーデ・ヴェフビー(1719-1809)36の詩集。全編が流麗なナスターリーク体の活字で印刷されている(図2参照)。

請求記号Y782-V6。

(7) Divan-i Nedim Efendi(『ネディーム詩集』)

コロフォン(奥付)を欠くため、出版年は不明だが、ヒジュラ暦1255年(1839/40年)刊と推定される37。ボード装に再製本、化粧断ち済み。高さ24.5cm、幅16cm。本文は107ページと59ページのふたつの部分からなる。トルコ語。販価20ピアストル。

17世紀前半の「チューリップ時代」に活躍した宮廷詩人ネディーム(1681-1730)38の詩集。発行年や発行者に関する情報を欠くが、『ヴェフビー詩集』と同じナスターリーク体の活字が使用され、同等の体裁で組版されていることからブーラーク版であると判断できる。

請求記号Y782-N12。

6.おわりに

ブーラーク版の意義として第一に挙げられるのは、その設立目的であったヨーロッパの学問・知識の近代的な学校教育を通じた普及である。また、出版によってヨーロッパの学問が翻訳され、普及したことで、トルコ語・アラビア語にヨーロッパで生まれた近代的な学術用語や概念を表現するための新しい言葉が定着した39

伝統的な文学の分野でもブーラーク版の意義は大きい。トルコ語では、16世紀から18世紀にかけてのオスマン帝国の著名な宮廷詩人の詩集が出版され、写本によらず容易に入手できるようになった。アラビア語では、文学作品の出版例は多くないものの、それまで俗書と見られてアラビア文学のジャンルとしては軽視されてきた説話集の『千夜一夜物語』や寓話集の『カリーラとディムナ』が印刷され、これらがアラブの伝統文学作品として再評価される端緒となったことは重要である。

ブーラーク以後、19世紀にはイスラム教徒が経営し、アラビア文字で印刷を行う出版事業が中東全域に広がった。印刷メディアの普及は、近代の中東イスラム社会の文学や思想の発展の大きな原動力となるが、そのさきがけとしてエジプトのブーラーク印刷所が果たした役割は、決して少なくない。


  • 1. 関西館アジア情報室所蔵のトルコ語資料の所蔵については、「国立国会図書館所蔵トルコ語・オスマン語図書目録(1986年9月以降整理分)」『アジア資料通報』第31巻特集号 (1993)、pp. 2-102. をご覧いただきたい。なお、現在当室ではトルコ語資料の書誌データの遡及入力を進めており、平成21年度中にアジア言語OPAC(http:// asiaopac.ndl.go.jp/)で検索が可能となる予定である。
  • 2. ミュテフェッリカ版については、白岩一彦「イブラーヒーム・ミュテフェッリカの人と業績 オスマン・トルコ語による金属活字印刷事業を中心に」『参考書誌研究』63号 (2005)、pp. 24-58. を参照。なお、同論文では、国立国会図書館の所蔵するミュテフェッリカ版として、Tarih-i Raşid Efendi(『ラーシト史』)を挙げているが、これは東京本館における所蔵であり、当館は関西館アジア情報室で同書のほかに数点のミュテフェッリカ版を所蔵している。アジア情報室所蔵のミュテフェッリカ版については、稿を改めて紹介したい。
  • 3. このコーランは現存しておらず、焚書により失われたと言われる。
  • 4. Yasin H. Safedi, "Arabic printing and book production", Arab-Islamic bibliography, Harvester Press (1977), pp. 222-224.、G. Oman, ”Maṭba‘a”, Encyclopaedia of Islam, New ed., VI, Brill (1991), pp. 795-796.
  • 5. 鈴木董「西アジア世界では」『印刷博物誌』凸版印刷 (2001), pp. 434-437.
  • 6. 新井政美『トルコ近現代史』みすず書房 (2001), p. 18.
  • 7. 19世紀当時、イスラム教徒たちは、ヨーロッパのアラビア文字活字は「あまりにもしまりがなく、東洋的なプロポーションの良さがまったくない」「不愉快で優美さのかけらもない」と感じていた。Perron, "Lettre sur les Ecoles et l’imprimerie du Pacha d’Egypte", Journal Asiatique, série 4, vol. II (1843), p. 19.
  • 8. Abdollatiphi : compendium memorabilium Aegypti, Apud Johann. Georg. Cotta. (1789)., Zeyl-i Nâbi, Maṭba‘at Būlāq (1832).
  • 9. 白岩前掲論文, pp.27-33. ミュテフェッリカの印刷所の最初の印刷物であるLugat-i Vankulu(『ヴァンクルの辞書』)は、1729年に刊行された。
  • 10. 新井前掲書, p. 21.
  • 11. J. Heyworth-Dunne, "Printing and translation under Muhammad Ali of Egypt", Journal of Royal Asiatic Society (1940), pp. 326-327.
  • 12. Turgut Kut, "Bulak Matbaası", Türkiye Diyanet Vakfı İslam Ansiklopedisi, 6, Türkiye Diyanet Vakfı (1992), p. 388.
  • 13. 管見の限り1819年、1820年、1821年、1822年の各説がある。
  • 14. Heyworth-Dunne, op. cit., pp. 329-330.
  • 15. Oman, op. cit., p. 797
  • 16. J.T. Reinaud, "De la gazette arabe, turque imprimée en Egypte", Journal Asiatique, série 2, vol. VIII (1831), pp. 238-249. 『エジプトの出来事』紙はその後、欧文誌名をJournal officiel du Gouvernement égyptien(『エジプト政府公報』)と称するエジプト政府の官報となり、今日まで刊行が続いている。
  • 17. Perron, op. cit., p. 18., Heyworth-Dunne, op. cit., p. 333.
  • 18. Michael W. Albin, "The survival of the Bulaq Press under Abbas and Said (1848-63)", International Association of Oriantalist Librarian Bulletin (1987), pp. 11-17.
  • 19. Kut, op. cit., p. 389.
  • 20. Abū al-Futūḥ Raḍwān, Tārīkh Maṭba‘at Būlāq, Maṭba‘at al-Amīrah (1953). Heyworth-Dunne, op. cit.,pp. 324-349.、N. Verdery, "The publications of BūlāqPress under Muhammad ‘Alī of Egypt", Journal of American Oriental Society, XCI (1971), pp. 129-132. など。
  • 21. T.X. Bianchi, "Catalogue général des livres arabes, persans et turcs imprimés à Boulac, en Egypte, depuis l'introduction de l'imprimerie dans ce pays", Journal Asiatique, série 4, vol. II (1843), pp. 24-61. なお、この目録には小冊子類に若干の収録漏れがあり、 Raḍwān, op. cit., pp. 446-479. がより完全である。 N. Verdery, op. cit., p. 130.
  • 22. Bianchi, op. cit. および Heyworth-Dunne, op. cit., p. 334.をもとに作成。
  • 23. Heyworth-Dunne, op. cit., pp. 336-337.
  • 24. N. Verdery, op. cit., p. 131-132.、山口直彦『エジプト近現代史』明石書店 (2006), p. 39. ムハンマド・アリーはアルバニア系とされ、日常的にはトルコ語を話した(同書, p. 53.)。
  • 25. Heyworth-Dunne, op. cit., p. 335.
  • 26. Ibid., p. 330.
  • 27. Divan-i Vehbî, Maṭba‘at Būlāq (1837).
  • 28. Perron, op. cit., pp. 16-18.
  • 29. Ibid., p. 22.
  • 30. オスマン帝国で流通した銀貨の貨幣単位。
  • 31. 濱田正美「トルコ」『アジア歴史研究入門4. 内陸アジア・西アジア』同朋舎, (1984)、p. 688.、Nevzat Kaya, "Karaçelebizâde Abdülazüz Efendi",Türkiye Diyanet Vakfı İslam Ansiklopedisi, 24,Türkiye Diyanet Vakfı (2001), pp. 387-389.
  • 32. Mustafa Erkan, "Dürretü’t-Tâc", Türkiye Diyanet Vakfı İslam Ansiklopedisi, 10, Türkiye Diyanet Vakfı (1994), pp. 33-34.、 Abdülkadir Karahan, "Nâbî", Türkiye Diyanet Vakfı İslam Ansiklopedisi, 32, Türkiye Diyanet Vakfı (2006), pp. 258-260.
  • 33. Ahmet Kahraman, "Ahlâk-i Alâî", Türkiye Diyanet Vakfı İslam Ansiklopedisi, 2, Türkiye Diyanet Vakfı (1989), pp. 15-16.、 Hasan Aksoy, "Kınalızâde Ali Efendi", Türkiye Diyanet Vakfı İslam Ansiklopedisi, 25, Türkiye Diyanet Vakfı (2002), pp. 416-417.
  • 34. Mustafa Çağrıcı, "İbrâhim Hakkı Erzurûmî",TürkiyeDiyanet Vakfı İslam Ansiklopedisi, 22, Türkiye Diyanet Vakfı (2000), pp. 305-310.、Bekir Topaloğlu, "Mârifetnâme", Türkiye Diyanet Vakfı İslam Ansiklopedisi, 28, Türkiye Diyanet Vakfı (2003), pp. 57-59.、M. Seyfettin Özege, Eski Harflerle Basılmış Türkçe Eserler Kataloǧu, Fatih Yayınevi (1971), p. 1025.
  • 35. Erhan Yetik, "Ankaravî, İsmâil Rusûhî", Türkiye Diyanet Vakfı İslam Ansiklopedisi, 3, Türkiye Diyanet Vakfı (1991), pp. 211-213.
  • 36. W. Björkman, "Sünbül-zāde Wehbī", Encyclopaedia of Islam, New ed., IX, Brill (1997), pp. 876-877.
  • 37. Bianchi, op. cit., p. 53.
  • 38. Muhsin Macit, "Nedîm",Türkiye Diyanet Vakfı İslam Ansiklopedisi, 32, Türkiye Diyanet Vakfı (2006), pp. 510-513.、F. Babinger, "Nedīm", Encyclopaedia of Islam, New ed., VIII, Brill (1995), p. 1.
  • 39. Heyworth-Dunne, op. cit., pp. 336-337.

(はやし しゅんすけ)

 

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