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第10回本の万華鏡 大正デモクラシーとメディア 第1章

2012年7月18日
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第1章 風刺漫画から見る大正デモクラシー

  大正時代は、大衆が自由を求める傾向が強まり、様々な政治運動、社会運動、労働運動などの大衆運動が盛り上がりを見せました。いわゆる大正デモクラシーです。そうした大衆運動の盛り上がりに、新聞を中心としたマスメディアが一翼を担ったことは見逃せません。
   新聞の発行部数は、明治40(1907)年には約229万部でしたが、大正時代に入ると、教育の普及により急速に普及し、関東大震災の翌年の大正13(1924)年には、約625万部となり、庶民の読み物として定着していきました 。そうした中で視覚に訴える風刺漫画は読者の心をとらえ、各新聞社で人気漫画が生まれました。本章では、大正時代の主要な政治的・社会的トピックごとに、当時の世相を表した風刺漫画をご紹介します。

※各トピックは年表にリンクしていますので併せてご参照ください。文中の黄色のマーカー部分から年表へリンクします。⇒年表

 

第一次護憲運動

  第2次西園寺内閣が予算案をめぐる陸軍の抵抗により総辞職に追い込まれると、大正元(1912)年12月に桂太郎が首相に就任しました。長州藩出身者が中枢部を占める陸軍によって西園寺内閣が倒され、内大臣兼侍従長という、政治には関与しないはずの宮中の身分にあった桂が首相になったことに世論は反発します。立憲政友会の尾崎行雄、立憲国民党の犬養毅らを中心に、「憲政擁護・閥族打破」をスローガンとした憲政擁護運動が全国で展開されます(第一次護憲運動)。桂は新党(立憲同志会)結成により、議会運営を乗り切ろうとしますが、世論は収まらず、大正2(1913)年2月には数万人が国会議事堂を取り巻くなど、混乱の収拾は不可能となり、わずか53日で桂内閣は総辞職しました(大正政変)。

1.羊頭を掲げて狗肉を売る / 筆者不詳(東京パック 9巻5号 大正2(1913)年2月10日 p.3 【雑13-3】)

羊頭を掲げて狗肉を売る

  この画は、各政糖(党)が互いに軒をならべて「立憲政治」の本家争いをしている場面です。「桂屋」の立ち上げた新政糖(党)(立憲同志会)は名ばかりの「立憲」で人々が寄り付かないので、巡査が強引に勧誘しています。立憲と名乗っているが看板倒れだ、国民は見抜いているぞ、と批判しています。

 

米価高騰と米騒動

  第一次世界大戦中の輸出増加によるインフレ に加え、米商人や地主による投機的買占めといった要因から、米の価格が値上がりし、政府の無策に対する不満が募りました。寺内正毅内閣は外米管理令の公布や、米穀を買い占めた仲買人への警告などを行いますが、抜本的な対策とはならず米価は上がり続けます。

2.この上にあげるべからず / 北沢楽天 (時事新報 大正7(1918)年5月4日3面 【YB-65】)

この上にあげるべからず

  警官は大きなサーベルを腰につけて米の仲買人をにらみつけているものの、後方では米俵がどんどん丘の上へと登っていきます。米価に対する政府の無策を風刺しています。

 

 

 

 

 

 

3.大正七年米騒動 / 岡本一平 (明治大正の文化 /  東京 : 博文館, 昭和2(1927) 【573-25】)

大正七年米騒動

  大正7(1918)年7月のシベリア出兵方針の発表が、米価高騰に更なる拍車をかけ、7月23日富山県魚津で漁民による一揆が発生しました。男性の大半が遠洋漁業などに出かけていて女性が多かったことから、「越中の女房一揆」と言われました。新聞報道もあって騒動は全国に広まり、その頂点となった8月13日には、その日だけで全国の計88箇所で騒動が起きたと言われます(米騒動)。
  政府は米の緊急輸入や白米の廉売政策などを行うと同時に、新聞に対する弾圧(白虹事件など)に乗り出しますが、新聞社は東京・大阪などの各地で内閣糾弾大会を開いて対抗します。このように国民やマスコミからの辞任要求が強まった結果、寺内内閣は元老からの信頼も失うこととなり、9月に総辞職します。
  代わって原敬が首相となり、初の本格的政党内閣が出現します。原が内閣史上初の爵位を持たない衆議院議員として首相になったことも、民衆の支持を得た理由の一つとなりました(平民宰相)。
  自らの行動が政党政治の道を開いたという自信をつけた民衆は、運動を組織化する重要性を認識し、労働組合などが増加しました。さらに、それら組織を軸にした労働運動・普選運動・婦人参政権運動など、大衆運動が盛んとなります。

 

 

普選運動

  大正11(1922)年6月、海軍大将の加藤友三郎が首相となります。野党第一党である憲政会指導のもとで普選運動が盛り上がる中、加藤は閣内に普通選挙法調査会を設け、納税要件の緩和による一部選挙権拡大でお茶を濁そうと策します。憲政会と対立する与党立憲政友会も、普選反対で歩調を合わせます。

4.普選は議会の遊び道具ではない / 小川治平 (時事漫画 大正12(1923)年1月14日 4面【YB-670】) ※当該資料はマイクロフィルム(白黒)でのご利用になります。

普選は議会の遊び道具ではない

  この画は、そんな政府と与党による普選先延ばしを批判したものです。「調査中」の羽子板を持つのが首相の加藤、「尚早」が立憲政友会総裁の高橋是清です。

 

 

 

 

 

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戦後恐慌と関東大震災

  大正12(1923) 年9月に起きた関東大震災は、大正9(1920)年3月15日の株価暴落に始まった戦後恐慌が後をひく日本経済にとって、更なる打撃となりました。雇用状況は深刻さを極め、社会全体が暗い雰囲気に覆われている状況の中、底抜けに明るい失業者を主人公に描き、人々の心を捉えたのが「ノンキナトウサン」です。同年4月から『報知新聞』の「日曜漫画」欄に掲載が始まり、震災の爪痕がまだ深い同年11月からは『夕刊報知新聞』一面に4コマとして毎日連載されるようになります。

5.ノンキナトウサン / 麻生豊 (報知新聞 大正14(1925)年6月30日夕刊1面 【YB-18】)

  仕事が見つけられない社会状況への皮肉が表わされています。

ノンキナトウサン

  万年失業者たちの日常をギャグと悲哀を交えてユーモラスに描くことで、明るさを求める当時の人々の心情にマッチし、関連商品や「ノントウ」が流行語になるなど、大変な人気となりました。この人気で、報知新聞の売れ行きが大きく伸びたと言われています。
  この「ノンキナトウサン」の大ヒット以降、新聞の四コマ漫画が定着し、戦後の「サザエさん」をはじめとした数々の傑作が生まれることになります。

 

第二次護憲運動

  震災直後に発足した第二次山本権兵衛内閣が虎ノ門事件で倒れると、大正13(1924)年1月1日に枢密院議長の清浦奎吾に組閣命令が下ります。清浦内閣は政党に基礎を置かず、貴族院を中心に組閣したので「特権内閣」と呼ばれました。これを非立憲的であると批判する憲政会、革新倶楽部、立憲政友会は護憲三派を結成し、政党内閣の確立を目指して憲政擁護運動を起こします(第二次護憲運動)。その後、選挙で大勝した護憲三派により、同年6月に普選実施を掲げた加藤高明内閣が成立します。以降、憲政会の後身の立憲民政党と立憲政友会とが交互に政権を担当する政党内閣の時代を迎えます。

6.護憲三派の共同作戦 / 岡本一平 (新水や空 政治編 / 岡本一平著  東京 : 先進社, 昭和6(1931) 【517-654】)

護憲三派の共同作戦

  第二次護憲運動のさなか、「特権内閣打破」の看板を掲げた護憲三派の攻撃の矢面に立たされている首相清浦奎吾の姿を痛烈に描いた画です。
  射的の銃を構えて標的の清浦首相を狙っているのは護憲三派の党首で、手前から、立憲政友会高橋是清、憲政会加藤高明、革新倶楽部犬養毅。清浦首相を後ろで支えているのは政友本党総裁の床次竹二郎です。

 

 

 

 

普通選挙実現

  大正14(1925)年3月に普通選挙法が議会で可決されました。これまで一定額以上を納税した人にしか与えられなかった選挙権が、財産に関係なく25歳以上の男子に与えられることになりました。女性参政権はまだ認められませんでしたが、普選実現は、大正デモクラシーにおける1つの到達点といえます。
  第一回普通選挙は昭和3年(1928)年2月20日に実施されました。

7.普選案早わかり / 岡本一平 (朝日新聞(東京)大正14(1925)年1月1日 【YB-2】)

  岡本は「普選案早わかり」という題で10作品を朝日新聞に発表しています。右図は「選挙資格制限撤廃」を表す絵で、25歳以上で6カ月以上定住した青年と、70歳を過ぎて税金をたくさん納めた老人が同じ一票を持っていることを表現しています。食べている餅は年齢を、衣服は財産を表しています。

普選案早わかり


コラムロゴコラム 漫画家の誕生

  「漫画家」は大正に生まれました。それ以前はいわゆる「フリーの漫画家」はおらず、新聞社がそれぞれに挿絵や漫画を担当する専属の画家を抱えていました。新聞社の一画家から「漫画家」という立場を確立して、活躍するようになった代表的人物として北沢楽天と岡本一平がいます。

北沢楽天

楽天自画像(漫画雑誌博物館 昭和次代篇時事漫画2 /
清水勲編 : 国書刊行会 【YQ11-536】より

北沢楽天自画像

  北沢楽天は英文週刊新聞での仕事が福沢諭吉の眼にとまり、明治32(1899)年に時事新報社へ引き抜かれます。明治35(1902)1月には『時事新報』の日曜特集欄「時事漫画」の主筆となり実力をつけた後、明治38(1905)年に初のカラー漫画雑誌『東京パック』を創刊します。『東京パック』は大好評となり、楽天は職業漫画家第一号を自認し、「漫画師」と名乗るようになりました。
  大正10(1921)年2月11日には、「時事漫画」欄は『時事新報』の日曜付録『時事漫画』【YB-670】として独立紙面となります。主筆として漫画を描く一方で、小川治平ら若手漫画家の育成に力を注ぎました。

 

岡本一平

一平自画像 『世界一周の絵手紙』より

岡本一平自画像

  岡本一平は大正元(1912)年8月1日、朝日新聞社に挿絵担当として入社します。当時、新聞の挿絵はコマ画と呼ばれる一枚絵でしたが、一平は試行錯誤のうちにコマ画に洒落た解説文を付ける独自の「漫画漫文」を編み出します。このスタイルは当時の漫画界に大きな影響を与え、大正時代の漫画表現の主流となりました。夏目漱石はこの「漫画漫文」スタイルを激賞し、出版にあたって序文を寄せています。(⇒漱石全集 / 夏目漱石著 : 漱石全集刊行会, 大正7(1918))
   一平は当初、自身を「漫画子」と名乗っていましたが、「漫画家」と称するようになりました。大正4(1915)年には東京の新聞各社の漫画記者に呼びかけ、日本最初の漫画家団体である、東京漫画会を結成します。一平たちは会の活動の中で、漫画家という職業を世間にアピールしていきました。

 

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