電子展示会 本の万華鏡

第1回本の万華鏡「アメリカ大統領の歴史―あらためて知る220年―」 第1章

2009年5月11日
リサーチ・ナビ本の万華鏡第1回 アメリカ大統領の歴史ーあらためて知る220年ー>第1章

第1章 大統領はいかにして選ばれたか

 
目次
 

  アメリカ合衆国は、18世紀後半に誕生した新しい国家です。北アメリカ大陸の各植民地は、イギリスとの間の独立戦争(1775~83年)に勝利し、念願の独立を達成しました。しかし、新国家は「連合規約(The Articles of Confederation)」に基づく緩やかな連合体として組織されていたため、より明確な連邦国家体制を確立する目的で1787年に憲法制定会議が開催され、アメリカ合衆国憲法(合衆国上院)外部サイトへのリンクの骨格が成立しました(正式に発効したのは1788年)。アメリカ合衆国の元首としての「大統領」という地位についても、この合衆国憲法で初めて規定されたのです。

  第1章では、「アメリカ合衆国大統領」について、4年に1度必ず行われてきた「大統領選挙」をテーマに、その歴史を振り返ってみます。大統領は、建国当初から現在と同じ方法で選ばれてきたわけではありません。また、選出についての法的な手続きが整備されてからも、選挙運動における政党やメディアの役割などは、回を重ねるごとに変化し続けています。

  まず第1節で、憲法制定過程や建国当初の選挙紛争をめぐる資料をご紹介します。第2節では、19世紀から20世紀にかけての、アメリカ史の節目となった大統領選挙をピックアップします。第3節では、選挙におけるテレビやインターネットの役割増大を扱った資料を取り上げ、最後の第4節では、惜しくも大統領になれなかった落選候補者たちに焦点を当てます。

 

*大統領の表記については、掲載大統領リストをご覧下さい。

 

第1節 大統領制度の形成 

  アメリカ合衆国憲法の採択にあたっては、当時の指導者(「建国の父 Founding Fathers」)たちの間で意見の対立が存在しました。憲法草案は、合衆国を構成する各州の権限に配慮していたものの、基本的な方向性は、大統領を中心とする強力な中央集権政府を樹立するというものでした。このため、憲法草案に賛成するフェデラリストと、反対するアンチ・フェデラリストとの間で論争が展開されることになりました。『ザ・フェデラリスト』(資料1a,1b)は、フェデラリストの代表的理論家たちによって、憲法草案擁護のために執筆されたものです。

  1788年に発効した合衆国憲法では、大統領について、「任期4年」・「各州の大統領選挙人が投票する間接選挙制」といった、現在にも引き継がれている基本的な枠組みが定められました。現在は各州の選挙人を一般有権者の投票結果に基づいて選出しているのに対し、当時は州議会が選出する手続きが基本であり、民衆の政治参加は著しく制限されていました。しかし、ジョージ・ワシントン初代大統領の在任期間(1789~97年)以降、連邦派と共和派の党派対立が本格化し、19世紀になると一般投票の結果が選挙人選出に反映される州が増えていきました。また、建国当初は本格的な政党政治が想定されていなかったため、選挙人による大統領・副大統領の選出方法も現在とは異なっていましたが、1800年の大統領選挙における紛争を経て、この点についても改革がなされました(資料2参照)。

  こうした中、米英戦争(1812~15年)で勝利したアメリカ合衆国はその国際的地位を高め、大統領職の重要性も増していくことになります。

 ≫ワシントン, ジョージ(Washington, George:1732-1799)[初代:1789-1797]

 

≫マディソン, ジェームズ(Madison, James:1751-1836)[第4代:1809-1817]

 

1a. The Federalist; a commentary on the Constitution of the United States; being a collection of essays written in support of the Constitution agreed upon September 17, 1787 by the Federal Convention. From the original text of Alexander Hamilton, John Jay [and] James Madison. With an introd. by Edward Mead Earle. / New York : The Modern Library, [1937]【AU-211-128】

邦訳

1b.ザ・フェデラリスト ハミルトン,J.ジェイ,J.マディソン〔著〕 齋藤眞, 武則忠見訳 東京 : 福村出版, 1998 【AU-211-G20】 

ハミルトンらの肖像

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  アレクサンダー・ハミルトン(初代合衆国財務長官)、ジョン・ジェイ(ニューヨーク州知事)、ジェームズ・マディソン(第4代合衆国大統領)による、合衆国憲法草案の解説書。合衆国憲法制定の必要性を、反対派に対して説得する議論が提示されています。当初は匿名で別々の新聞紙上に発表され、1788年にまとまった形で出版されました。第67~77篇(ハミルトン執筆)では、大統領の選出方法や任期・権限などについて詳細に論じられています。なお72篇「大統領再選規定の功罪」では、大統領の再選制限について批判的見解が述べられていますが、1951年に発効した憲法修正第22条で、大統領の再選は1回までと制限されました。
  The Federalistは現在までに様々な形で再版されていますが、資料1aは、軍事・外交史家のエドワード・ミード・アール(コロンビア大学・プリンストン大学教授)によって編集されたもの。掲載画像は、資料1bの口絵写真に掲載されている、ハミルトン、ジェイ、マディソンの写真です。

 

≫アダムズ, ジョン(Adams, John:1735-1826)[第2代:1797-1801]
≫ジェファソン, トマス(Jefferson, Thomas:1743-1826)[第3代:1801-1809]

 

2. A magnificent catastrophe : the tumultuous election of 1800, America's first presidential campaign / Edward J. Larson New York : Free Press, c2007.【AU-251-B105】

  トマス・ジェファソンが第3代大統領に当選した、1800年の大統領選挙についての研究書。著者は歴史学者(ペパーダイン大学教授)。混乱を極めた選挙の経緯を、当事者の人間関係などにも踏み込んで生き生きと叙述しています。
  この選挙までは、各州の選挙人が正・副大統領候補の区別なく1人2票を投じ、上位2人が得票順に大統領・副大統領となる仕組みでした。しかし1800年には、共和派の2名の候補、ジェファソンとアーロン・バーが同点となり、当選者決定まで下院で36回もの決選投票を要するという紛争が生じました(最終的には、連邦派の一部の態度変更によりジェファソンが当選)。このため、次回の1804年から、選挙人は正・副大統領候補のペアに投票するという現在の制度に改められました。
  またこの選挙は、連邦派のジョン・アダムズから共和派のジェファソンへ、選挙による最初の「政権交代」が行われたという意味でも画期的なものでした。

 

党派間の和解を訴えた、ジェファソンの就任演説(在日米国大使館)外部サイトへのリンク

 

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第2節  歴史の節目となった大統領選挙

 

  アメリカ合衆国で近代的な意味での政党システムが成立するのは、1830年代、アンドリュー・ジャクソン大統領の在任期間(1829~37年)頃です。当初は、ジャクソンを支持する民主党 Democratic Partyとそれに対抗するホイッグ党 Whig Partyとの二大政党制でしたが、奴隷制への賛否をめぐる1850年代の政党再編成により、民主党と共和党 Republican Partyとの二大政党制が成立します。このシステムは21世紀の現在も続いていますが、その間には何度かの歴史的節目がありました。

  1860年の大統領選挙は、奴隷制に反対して結成された共和党から初の大統領当選者(エイブラハム・リンカン)が登場し、南北戦争(1861~65年)のきっかけとなったという意味で重要なものでした(資料3)。同戦争の終了後行われた16回の大統領選挙(1868~1928年)のうち、民主党が勝利したのは4回に過ぎず、共和党の優位が長く続くことになります。

  この状況を変えたのが、1929年に発生した世界大恐慌と、それに続く1932年の大統領選挙でした(資料4)。現職のハーバート・クラーク・フーヴァー(共和党)を破ったフランクリン・デラノ・ローズヴェルト(民主党)は、「ニューディール政策」を打ち出して国民の支持を勝ち取り、その後1953年まで続く民主党政権の基盤を築きました。

  第二次大戦後の大統領選挙では、史上まれにみる接戦となった2回の選挙を取り上げます。1960年には、民主党のジョン・フィッツジェラルド・ケネディが、史上最年少かつカトリック教徒として初の大統領当選者となりました(資料5)。2000年には、大統領選挙の結果が連邦最高裁の判決を待って決定される異例の事態が発生しました(資料6)。また、いずれの選挙についても、当選した大統領の政策がその後のアメリカ合衆国の進路に大きな影響を与えたといえます。 

≫ジャクソン, アンドリュー(Jackson, Andrew:1767-1845)[第7代:1829-1837]

 

 ≫リンカン(リンカーン), エイブラハム(Lincoln, Abraham:1809-1865)[第16代:1861-1865]

 

3. READING, BY THE AID OF A DRUMMOND LIGHT, THE RETURNS OF THE PRESIDENTIAL ELECTION, ON THE NIGHT OF NOVEMBER6, 1860, AT THE HERALD OFFICE, NEW YORK. (Harper's Weekly : a Journal of Civilization Reprint Ed. 1860.11.10 p.712-713 【Z99-996】) 

リンカン当選時の市民の様子

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  1860年、リンカン当選時の新聞漫画。街頭で大統領選挙の開票速報を見守る市民の様子を描いています。リンカンの得票率は、40%弱という大統領選挙史上最低の数字でしたが、民主党の南北分裂に助けられて当選を果たしたものです(次点は、北部民主党のスティーヴン・ダグラス)。
  同じ号には、リンカンの当選が連邦分裂を招くのではないかという危機感から、ウォール街でパニックが広がっているという記事も掲載されています。その後実際に、奴隷制を支持する南部11州は連邦を離脱し、南北戦争が始まりました。
  Harper's Weeklyは、1857~1916年にニューヨークで発行された週刊誌。政治記事や風刺漫画を多く掲載し、南北戦争前後の世論形成に一定の影響力を有しました。

 

≫フーヴァー, ハーバート・クラーク (Hoover, Herbert Clark:1874-1964)[第31代:1929-1933]
≫ローズヴェルト, フランクリン・デラノ(Roosevelt, Franklin Delano:1882-1945)[第32代:1933-1945]

 

 4. 米国大統領選挙論 : フーヴァーか?ルーズヴェルトか? / 高橋清治郎著 東京 : 明治大学出版部, 昭和7(1932) 【631-33】

『米国大統領選挙論』本文

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  1932年、フランクリン・デラノ・ローズヴェルト大統領が当選した選挙戦の最中に、日本で出版されました。掲載画像は本文ページ。
  アメリカの大統領選挙制度について日本人向けに解説するとともに、フーヴァー・ローズヴェルト両候補の人となりや政策についても紹介しています。勝敗予想については、経済不況ゆえに「デモクラット[引用者注:民主党]は最も有望だらうとの推断を下し得ないこともない。けれども實際政治は科學でも論理でもない。従って如何なる結果が起らうとも豫断されない」(p.53~54)として、断定を避けています。
  著者の高橋清治郎は、明治大学法学部を卒業後、ワシントン大学で政治学を学んだ人物。明治大学で教鞭をとったほか、衆議院議員をつとめました。

 

≫ケネディ, ジョン・フィッツジェラルド(Kennedy, John Fitzgerald:1917-1963)[第35代: 1961-1963]
≫ニクソン, リチャード・ミルハウス(Nixon, Richard Milhous:1913-1994)[第37代:1969-1974]

 

5. 新大統領の対日政策 (週刊読売 19(47)1960.11.13  p.4-9 【Z24-16】)

  ケネディが僅差でリチャード・ミルハウス・ニクソン(共和党)を破り当選した、1960年の大統領選挙について、選挙直前に日本の週刊誌が取り上げた記事。リード文には「四十七歳のニクソン、四十三歳のケネディ、自由世界のリーダーにどちらがなるか、そして"四十代の新しい波"が、どんな形で日本におしよせるか...」とあり、四十代の若い大統領出現についての強い関心がうかがえます。また、極東政策については、両候補とも対中国政策を重視しており、対日政策はその陰に隠れていると指摘しています。
  当選したケネディは、キューバ危機の解決など外交面での成果をあげる一方、黒人公民権問題にも取り組みましたが、1963年11月22日に暗殺されました。一方、落選したニクソンは、1968年の大統領選挙でヒューバート・ホレーショ・ハンフリー(民主党)を破り、当選を果たしました。

 

 ≫ブッシュ, ジョージ・ウォーカー(Bush, George Walker:1946-)[第43代:2001-2009]

 

6. The votes that counted : how the court decided the 2000 presidential election / Howard Gillman. Pbk. ed. Chicago, Ill. : University of Chicago Press,  2003 【AU-251-B10】

  連邦最高裁による判定にもつれこんだ、2000年の大統領選に関する研究書。著者は南カリフォルニア大学教授。
  アルバート・ゴア(民主党)は、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ(共和党)を一般投票で上回りましたが、選挙人票では接戦となり、フロリダ州の開票結果によって結果が決まる事態になりました。フロリダ州における投開票手続きの公平性をめぐっては、両陣営を巻き込んだ訴訟が展開され、12月12日の連邦最高裁判決(手作業による州全体での票の数え直しを命じた、フロリダ州最高裁判決を破棄・差し戻した)の後、ブッシュのフロリダ州獲得と全米での勝利が確定しました。本書は、この事態を象徴する、最高裁判事9名の写真を表紙に掲載しています。
  当選したブッシュは、2001年9月11日のニューヨークにおける自爆テロ事件以降、いわゆる「テロとの戦い」を提唱して強力な指導力を発揮することになります。

 

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第3節 大統領選挙の変貌-メディア主導の選挙へ

 

  洋の東西を問わず、伝統的な選挙運動のスタイルとは、候補者が街頭演説で自らの政見を直接有権者に訴える一方で、政党や支持組織の関係者が資金集めなど裏方的仕事に取り組むというものでしょう。アメリカ合衆国でも、1948年の大統領選で劣勢と予想されていたハリー・S・トルーマン大統領(民主党)が精力的な全国遊説で逆転勝利を収めるなど、第二次大戦直後まではこのスタイルが支配的でした。

  しかし、1950年代以降、新しいメディア・テレビを通じての選挙運動が急速に発達を遂げていきます。その中で、伝統的な選挙運動スタッフに代わって、広告代理店などのメディア関係者が大統領選挙運動の戦略全体を動かす場面すらみられるようになります(資料7・8)。もちろん、そのことで従来型の選挙運動が必要性を失ったわけではありませんが、テレビCMを運動全体に戦略的に組み込むことが当選に不可欠となったのです。さらに2000年代に入ると、インターネットの発展により、宣伝や資金集めにおける電子メディアの役割も増大しています(資料9)。

  こうした傾向には、国民の政治的関心をかき立てるという積極面と、メディアが大統領候補の「虚像」を拡大してしまうという消極面の双方が存在しているといえるでしょう。

≫トルーマン, ハリー・S(Truman, Harry S. : 1884-1972)[第33代:1945-1953]

 

≫ジョンソン, リンドン・ベインズ(Johnson, Lyndon Baines:1908-1973)[第36代:1963-1969]

 

7. メディア仕掛けの選挙 : アメリカ大統領達のCM戦略 / エドウィン・ダイアモンド, ステファン・ベイツ著 ; 佐藤雅彦訳 東京 : 技術と人間, 1988 【UC51-E7】

『メディア仕掛けの選挙』表紙

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  大統領選挙におけるテレビの役割増大を描いた研究書の邦訳。1952年の選挙から本格的に導入された、大統領選挙でのテレビCMキャンペーンが、その後急速な発達を遂げる過程を、CMの具体例(画像・シナリオとも)を挙げつつ描き出しています。
  第8章「『ひなぎく』スポット-大衆の心に焼き付けた恐怖」では、1964年の大統領選挙で、現職のリンドン・ベインズ・ジョンソン大統領(民主党)陣営が対立候補のバリー・モリス・ゴールドウォーター(共和党)に対して用いたCMが取り上げられています。「ひなぎく(Daisy)」スポットとして知られるこのCMは、少女がひなぎくの花びらを一枚ずつ摘む映像から始まり、カウントダウンを経て核爆発の場面が映し出され、最後にジョンソンの「今日、大統領に誰を選ぶかは、大きな賭けといえます。神の祝福を受けたすべての子供たちが生きていける世の中にするのか、それとも地獄に落ちるのかという賭けであります」(p.193)という声で終わります。ゴールドウォーターの「タカ派」的姿勢に対する国民の潜在的不安感に訴えかけたこのCMは、対立候補を貶める「ネガティブ・キャンペーン」の事例として知られています。

■「ひなぎく」スポットの動画(ジョンソン大統領図書館・博物館)外部サイトへのリンク

 

8. The selling of the President, 1968 / by Joe McGinniss. New York : Trident Press, c1969【AU-251-54】

  1968年大統領選における、候補者(ニクソン)の「商品」としての売り込み戦略を、新聞記者でその選挙運動を内側から取材した著者が記述しました。
  1960年の大統領選挙でケネディと争って惜敗したニクソンは、その敗因の一つにメディア戦略の不十分さがあったと考え、1968年の選挙では徹底したイメージ戦略を構築しました。本書では、冒頭からニクソンのテレビCM撮影風景が具体的に描写されるなど、広告の専門家たちが大統領候補者をコントロールしていた状況が紹介されています。「政治とは、ある意味ではいつも詐欺(a con game)であった」という第2章冒頭の一節は挑発的であり、本書の政治観を象徴していると言えるでしょう。

 

9. The Internet election : perspectives on the Web in campaign 2004 / edited by Andrew Paul Williams and John C. Tedesco. Lanham, Md. : Rowman & Littlefield, c2006.【AU-251-B82】

  2004年大統領選挙における、各候補者のインターネットを通じたキャンペーンについての研究書。編者2名はバージニア工科大学教員で、各章を政治学やメディア論の研究者が分担執筆しています。
  現職のブッシュや、民主党指名候補であったジョン・フォーブス・ケリーをはじめとして、各党の大統領予備選挙に出馬した候補者たちのネット戦略について知ることができます。比較的安価な広報手段として、ネット広告・ブログ・Eメールなどの活用が急速に進んでいるものの、たとえばブログが期待されたほど双方向的に機能していない(第8章)など、問題点も少なくないことが指摘されています。

 

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第4節 落選候補者たち

 

  220年に及ぶ大統領選挙の歴史の中では、ホワイトハウスに入ることに成功した人々だけでなく、落選者たちの中にも歴史に名を残した者がいます(資料10)。

  たとえば、1824年、1832年、1844年の3回大統領に出馬して敗れたヘンリー・クレイ(1877-1952、ホイッグ党)は、1820年、1850年に奴隷制をめぐって南北分裂の危機が生じた際、その調停に尽力したことで知られています。1957年にアメリカ上院の特別委員会は、「著名な5人の上院議員(the Famous Five)」(合衆国上院)外部サイトへのリンク の1人にクレイを選出しました。

  また、1896年、1900年、1908年の大統領選挙に出馬しながら、クレイ同様3回とも敗北したウィリアム・ジェニングズ・ブライアン(1860-1925、民主党)は、傑出した雄弁家として知られています(資料11)。

 

10. 彼らもまた出馬した : アメリカ大統領選挙に敗れた20人 / アーヴィング・ストーン著 ; 早川書房編集部編〔訳〕 東京 : 早川書房, 1969【A116-1】

  第二次世界大戦前までの、大統領選挙での主要な落選者20人の列伝。著者はヴィンセント・ヴァン・ゴッホなどの伝記作者で、原著は1943年に出版されました。大政党から大統領候補として指名を受け、最終的に当選できなかった人々について、それぞれの生涯を詳細に紹介しています。「第2部 三度敗れた男たち」では、クレイとブライアンの生涯が紹介されていますが、野心家として必ずしも好意的に描かれていません。

 

11. The memoirs of William Jennings Bryan, by himself and his wife Mary Baird Bryan. / Port Washington, N.Y. : Kennikat Press, [1971] 【GK418-A18】

ブライアンの自伝

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  ブライアンの自伝(妻と共著)。彼は1896年の民主党大会で、金本位制に反対し銀の自由鋳造を主張する演説で圧倒的な支持を集め、大統領候補に指名されました。本選挙では落選しましたが、その雄弁によってさらに2回民主党候補に指名されることになります。ブライアンは南西部の貧しい農民の利益を擁護する一方、宗教的理由から、進化論反対の立場で裁判に証人として出廷したというエピソードも残っています。
  本書は2巻構成となっており、第1巻はブライアン自身が政治的経歴を中心に回想し、第2巻は妻のメアリーが公的・私的な思い出を私信を交えて語っています。第1巻の前書きでブライアンが、自分の成功は「幸運」(good fortune)による部分が大きいと書いているのは、敬虔なキリスト教徒らしい謙遜と言えるでしょう。

 

コラムロゴコラム:ファーストレディ群像

  2009年に誕生したオバマ政権では、ミシェル夫人が黒人初のファーストレディとして注目を浴びています。また、1993年から2001年までファーストレディの座にあったヒラリー・ロダム・クリントンが国務長官に就任したことも話題を呼んでいます。ヒラリー・クリントンは、もちろんファーストレディ経験者として初の国務長官であり、2001年から2009年には、ファーストレディ経験者として初の連邦上院議員でもありました。

  このように脚光を浴びている「ファーストレディ」という存在ですが、この呼称が最初に使われたのがいつかについては、必ずしも明確ではありません。

・ ファーストレディ物語 : ホワイトハウスを彩った女たち / 宇佐美滋著 東京 : 文芸春秋, 1991 【GK21-E34】

を見ると 、「ヘイズ大統領の就任式を週刊誌『インディペンデント』のために報道した婦人記者のメアリー・エイムズがルーシー夫人を描写した中に「わが国のファーストレディ」(The First Lady of the Land)という表現を使ったのが、その後大統領夫人の通称として定着したのだといわれている」(p.151)としており、この説に従えば、南北戦争後にこの呼称が誕生したことになります。

  「ファーストレディ」という呼称が確立する以前、存在感を示した大統領夫人の1人に、ジェームズ・マディソン第4代大統領の夫人、ドーリー・マディソンがいます。彼女は夫のジェームズが大統領職にあった8年間だけでなく、前任者のトマス・ジェファソン大統領の時代も含めて、大統領官邸で豪華なパーティを催すなど、ワシントン社交界の中心人物として知られました。

  また、ファーストレディとして本格的な政治的・社会的役割を果たした草分けとしては、フランクリン・デラノ・ローズヴェルト第32代大統領の夫人、エレノア・ローズヴェルトが有名です。彼女は、アメリカ国内でスラムの視察や黒人への差別撤廃活動に取り組んだほか、第二次大戦後には世界人権宣言の採択に中心的役割を担いました。彼女の伝記として、たとえば

・Eleanor Roosevelt : a biography / Cynthia M. Harris. Westport, Conn. : Greenwood Press, 2007.【GK485-B9】

があります。

 

≫ヘイズ,ラザフォード・バーチャード (Hayes, Rutherford Birchard:1822-1893) [第19代:1877-1881]

 

 

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