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第148回常設展示 女學生らいふ

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第148回常設展示 女學生らいふ

キーワード:女学生;女学校;少女文化  カテゴリ:社会・労働・教育     件名(NDLSH):女学生  分類(NDC):367.2

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平成19年6月21日(木)~8月14日(火)

 

はじめに

自転車に乗る女学生(トップ大)

 自転車に乗る女学生
『新版引札見本帖.第1』〔明治36(1903)〕【406-5】(資料D)より

 

「女学生」。この言葉は明治初年頃に生まれ、20年代以降、一種の都市風俗を表すものとして定着したとされています。文明開化の息吹のなか、新たな 女性像のひとつとして登場した女学生は、教養ある女性層を代表する存在でした。時代風俗の象徴のひとつとして世間の注目を集め、時に憧れの対象、時に風刺 の的ともなった彼女たちの姿は、新聞や雑誌、文学作品などさまざまな資料に見ることができます。

女学生の登場にはいうまでもなく、近代的女子教育の導入が必要でした。江戸時代には、女子に対する教育の場はきわめて限定されていましたが、明治に 入ると、フェリス女学校などの私立女学校や官立女学校といった女学校の設立が相次ぎます。明治32年(1899)、高等女学校令によって高等女学校の設置 が制度化されると、女学生の数は1万人を超えるようになりました。そして、進学率が大きな伸びを見せた大正〜昭和期には、女学生独自の文化が生まれまし た。

第148回常設展示では、そうした明治〜昭和初期にかけての女学生をテーマとして取り上げます。

※「女学生」について

今回ご紹介する「女学生」とは、明治から昭和初期にかけて設置されていた高等女学校に通う12〜17歳の少女を主に指しています。当時の学校制度は 現在と異なり、義務教育は6年間で、その後の進路は学力や親の経済力、男女の違いによって様々にわかれました。学制は時代によって変化しますが、高等女学 校数が増え進学率[注1]が上昇し始めた大正半ばを例に挙げると、尋常小学校での義務教育を終えたのち、成績優秀な男子は中学校(旧制)へ進み、専門学校へ進学したり、高等学校(旧制)等を経て大学を目指したりしました[注2]。一方、成績優秀な女子は中学校(旧制)に相当する高等女学校へ進学しました。卒業後更に進学することは少なく、大正9年度本科卒業生の進路は、進学:23.9%、就職:7.9%、その他:68.1%[注3]となっています。

※下記の文部科学省のページで、明治から昭和にかけての学制の変遷を図で見ることができます。
『学制百年史 資料編』 三 学校系統図外部サイトへのリンク

注1)大正4年(1915)の中等教育機関(旧制中学校、高等女学校、その他学校含む)への進学率は、男子10.8%、 女子5.0%、大正9年(1920)では、男子19.7%、女子11.5%でした。時代が進むにつれ、中等教育機関への進学率は増加しますが、それでも昭 和15年(1940)時点で男子28.0%、女子22.0%であり、中学校や高等女学校へ進学できたのは、ごく一部の少年少女に限られました。(『日本の 教育統計 : 明治-昭和』文部省 1971【FB14-39】参照)

注2)大正9年度卒業生の進路は、進学:33.5%、就職23.4 %、その他:42.8%(『全国中学校ニ関スル諸調査』第6巻 大空社 1988【FC36-E26】より算出)

注3)大正9年度本科卒業生の場合。(『全国高等女学校・実科高等女学校ニ関スル諸調査』第5巻 大空社 1989【FC36-E63】より算出)

資料をご覧になる場合のご注意

  • 展示資料には、1〜25までの通し番号を、パネルにはA〜Oまでのアルファベットをつけています。
  • 【 】内は、国立国会図書館の請求記号です。
  • 【YDM】【YD5】【YA5】【YB】から始まる請求記号の資料及びマイクロフィッシュでのご利用をご案内している資料は、マイクロフィッシュまたはマイクロフィルムでの閲覧となります。展示期間中のご利用も可能です。
  • 資料名のあとに[近デジ]とあるものは、当館のホームページ内「近代デジタルライブラリー」で画像をご覧になれます。タイトルにはられたリンクからご利用ください。
  • 資料名のあとに[館電]とあるものは、東京本館内の各専門資料室に設置された電子情報提供サービス端末から利用が可能です。
  • 文中の人物名にはられたリンクからは、国立国会図書館ホームページ内ギャラリー「近代日本人の肖像」をご覧いただけます。
  • 記事を引用するにあたりましては、原文をそのまま引用しましたが、新字・旧字の判読が困難な文字及び変換が困難な文字については、新字で記述しています。

第一章 女學生-イメージの変遷

江戸期以前の封建社会のもとでは、女性に学問は必要なく、家を守っていればよいと考えられていたため、女子に対する教育といえば寺子屋などでの初歩 的なものに限られていました。しかし明治期に入り文明開化の波が押し寄せると、徐々にではありますが、女子に対する教育が広まっていき、紆余曲折を経なが らも大正末期には30万人近くが高等女学校に通うようになります。その間、目新しい存在であった女学生は、まだまだ封建主義の色濃かった世間の好奇の目に さらされながらも、社会の変動とともにそのスタイルを変化させていきました。

■ 女学生事始 ■

◆男袴を履いた女学生
明治に入ると、明治3年(1870)に築地のA六番女学校(後の女子学院)、横浜のフェリス女学校など外国人居留地にキリスト教宣教師によるミッション系 女学校の設立が相次ぎ、それを追うように翌4年(1871)には政府も官立女学校を東京竹橋に設立し、女子教育の黎明を迎えます。この頃はまだ日本語によ る教育内容が確立されておらず、英語の教科書を訳読するようないわゆる「洋学」が授業の中心でした。また、椅子に座って授業を受ける際、着流しの着物では 裾が乱れやすいという問題があることから、政府はこの時代としては例外的に男袴の着用を女学生に認めました。

1. 怪化百物語 下 / 高畠藍泉(転々堂)著
東京 : 井上定保, 明治8(1875)
【YDM90399】[近デジ]
女学生ではありませんが、島田髷に縞の男袴を履き、小脇に洋書を抱えた「女学校の助教」が描かれています。
「表を動かして香路に満つ 歩を移して襪(したうず=足袋の一種)塵を生ず」

しかし、「〜今日我邦にも婦女子にして袴を着し昂然として毫も恥る意なし。その甚哉奇異の風体、実に国辱とも云べし」(郵便報知新聞 明治7年1月15日)、「〜女子といふものは髪形から着物までも艶くして総てやさしいのが宜いとおもひますに此節学校へかよふ女生徒を見ますに袴をはいて 誠に醜くあらあらしい姿をいたすのはどういうふものでありますか」(読売新聞 明治8年10月8日)など新聞紙上で投書による批判が相次いだように、女子の男袴の着用に対する世間の反発は根強く、明治16年(1883)には政府が着 用を控える旨の通達を出すに至り、女子の男袴は姿を消してしまいました。

◆鹿鳴館時代
条約改正の為の欧化主義により、明治16年(1883)に鹿鳴館が落成するという時代背景のもと、明治18年(1885)に大臣に就任した森有礼に よる文部行政では、欧化主義が教育にも影響を与えました。華族女学校や、東京女子師範など一部の官立女学校では洋装が義務付けられ、舞踊が授業科目に取り 入れられました。この頃盛んに催された舞踏会では、既婚女性は表に出ないという慣習から若い女性の踊り手不足が生じ、それを解消する為に、洋装で着飾った 女学生が借り出されることもしばしばでした。

2. お茶の水女子大学百年史 / 「お茶の水女子大学百年史」刊行委員会編
東京 : 「お茶の水女子大学百年史」刊行委員会, 1984
【FB22-1623】
東京女子師範学校生徒の正装写真。明治10年(1877)頃は男袴を着用していたのが、明治16年(1883)には着流しに戻り、さらに明治19年(1886)には洋装となっており、慌しい時代の変化を窺うことができます。
A.東京女子高等師範学校沿革略志 / 東京女子高等師範学校編
東京 : 東京女子高等師範学校, 大正4(1915)
【YD5-H-274-24】
同じく東京女子師範学校生徒の鹿鳴館時代末期、明治23年(1890)の正装写真。

東京女子師範学校生徒
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◆和装への回帰から海老茶袴へ
その後、明治22年(1889)には森文相が 暗殺され、翌23年(1890)には教育勅語が発布されるなどの国粋主義の流れの中、コスト面での問題も大きかった鹿鳴館時代の洋装は下火となり、再び和 装へと戻ります。しかし着流しの機能面での問題は依然として大きく、やがて明治30年(1897)頃から海老茶色の女袴が広まり始めます。これは華族女学 校が採用していた紫色の女袴を元に、そのままでは畏れ多いということから色を変えたものでした。

B.写真で見る跡見学園の歩み
東京 : 跡見学園, 2000
【FB22-G851】
華 族女学校よりも先に設立され、華族の子女が多く通っていた跡見女学校でも、早くから「お塾袴」と呼ばれる紫の女袴を着用していました。創立者の跡見花蹊に よれば、皇后陛下より「婦人にはやはり緋の袴仕立にして、色は紫を用いたらよからう」(読売新聞 明治35年11月9日)という直々の助言があったとのことです。「緋の袴」とは、古来の宮中女官の服装である緋袴を指しています。写真は、明治15年ごろ の寄宿生。
■ 海老茶式部と魔風恋風 ■

◆海老茶式部
明治32年(1899)に高等女学校令が施行され、道府県に最低1校の高等女学校設置義務が規定されると、高等女学校に通う女学生の数は明治33年 (1900)には1万人、35年(1902)には2万人を越えて、女子教育は最初の開花期を迎えます。明治30年代半ばには海老茶袴スタイルは女学生に完 全に定着し、一方で髪形も、不衛生であるとされた江戸以来の島田髷等の結髪に代わり、西洋風の束髪が大勢を占めていきます。この束髪に海老茶袴の女学生ス タイルは、紫式部をもじって「海老茶式部」とやや皮肉をこめて呼ばれるようになりました。

◆魔風恋風と自転車女学生

C.魔風恋風 第一 「紀念会」 / 小杉天外
(読売新聞 明治36年2月25日 朝刊 1面 【YB-41】)
[館電] ※明治の讀賣新聞【YH231-650】でもご覧いただけます。
読売新聞に連載された小杉天外による小説「魔風恋風」は、才色兼備の女学生萩原初野を主人公として当時流行の女学生風俗やその恋愛模様を描いて人気を博しました。
「鈴(ベル)の音高く、見(あら)はれたのはすらりとした肩の滑り、デードン色(=深紅)の自転車に海老茶の袴、髪は結流しにして白いリボン清く、着物は矢絣の風通、袖長ければ風に靡いて、色美しく品高き十八九の令嬢である。」

D.新版引札見本帖. 第1
〔明治36(1903)〕
【406-5】
自転車に乗った美女学生のイメージは一般的なものとなり、引札(当時のチラシ広告)にも使われました。この資料はその見本で、本来であれば左の空白部分に商店などの広告が入ります。
自転車に乗る女学生(本文中)

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3. はいからさんが通る : 花の東京大ロマン. 1 / 大和和紀著
東京 : 講談社, 1975
【Y84-H13945】
自転車に乗ったヒロインの通学途中の転倒事故から物語が始まる、という魔風恋風パターンを踏襲しています。その後アニメや映画などの原作となり、現代における女学生イメージの源流となりました。

 

自転車女学生のモデル:三浦環

写真中央が17歳の環
(お蝶夫人 / 三浦環〔著〕東京 : 右文社,
昭和22年(1947)【766-Mi67ウ】 口絵より)
※マイクロフィッシュでのご利用となります。

 

自転車女学生のモデル:三浦環

「魔風恋風」の自転車女学生のイメージには実在のモデルがいました。
明治33年(1900)、上野の東京音楽学校に通うことになった16歳の環(当時は柴田姓)は、乗り物酔いをする体質だったこともあり、芝にあった自宅か ら、片道8キロ強の自転車通学を始めました。当時まだ珍しかった自転車に、女学生が乗って通学する姿は新聞に載るほど評判となり、「自転車美人」と呼ば れ、見物人も出たといいます。 三浦環は後に、プッチーニの「蝶々夫人」を当たり役として、日本の女性として初めて欧米のオペラ界で活躍しました。

◆堕落女学生
「魔風恋風」のような美しい女学生イメージの一方で、新聞紙上などでは「上京」「下宿」などのキーワードとともに、本分の勉強よりも恋愛にかまけ、服装も 華美に走っているとする「女学生の堕落問題」が盛んに取り上げられました。また風刺雑誌の格好の標的となり、揶揄的に取り上げられました。

E.荒馬物語
(東京パック 第1巻第2号 明治38年(1905) 5月 p.21 【Z11-1499】 覆刻)
女学生の髪形は「廂髪(ひさしがみ)」と呼ばれるこの時代の女学生の典型となった束髪のスタイル。タイトルの「荒馬」は女学生の口癖「あらまあ」からきており、男子学生との公園の茶店での逢引が描かれています。
荒馬物語

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4. 「昨今の東京女学生風装」 滑稽新聞 第108号 明治39年2月5日 9面
(宮武外骨此中にあり : 雑誌集成. 第11巻 / 複製 東京 : ゆまに書房, 1994 【US21-E67】)
近 頃東京女学生の風装が変わってきたのは廂髪と海老茶袴が堕落女学生の代名詞となったためと推測したうえで、「然しイクラ表面を変へても、改心することがな けリヤ、やはり滑稽記者様の材料(タネ)つくりだ」としています。また隣の記事では「当世式部の艶書」として女学生のラブレターが取り上げられています。

5. 滑稽女学生旅行. 続 / 五峰仙史著
東京 : 大学館, 明治40(1907)
【YDM93736】 [近デジ]
「滑稽女官吏」「滑稽女教師」「滑稽開業女医」「滑稽自由結婚」「滑稽女学生倶楽部」「滑稽貧乏華族」など「滑稽」を冠して当世の新風俗を描いたシリーズのうちの一冊。
6. 斯くある女学生/ 武谷等 等著
京都 : 丸木屋書店, 大正9(1920)
【YD5-H-299-54】
男性による記述が圧倒的に多い中、女学校を卒業した武谷高志子嬢と市村恵津子女史の姉妹による備忘録を、父親の協力を得て「小説的に作り直して、世に公にす る事に致しました」という体になっており、内側から見た女学校の生活を描いています。4章の「金指輪の学校」では、数名の生徒が金の指輪をしていたことか ら、その話に尾ひれがついて噂が大きくなっていき、果てには学生全員が金指輪をしているという記事が地方紙や東京の大新聞にまで載るようになった顛末を紹 介しています。

 

現今女学生の遊戯

「現今女学生の遊戯」

滑稽新聞 第102号 明治38年8月25日 5面
(宮武外骨此中にあり : 雑誌集成. 第10巻 / 複製 東京 : ゆまに書房, 1994 【US21-E67】)

「通れ通れ角帽お通りなされ角帽
行きはよいよい戻りもよくッて」

手をつないだ女学生の間に見えるものは・・・?

解答はこちら

■ 海老茶式部からセーラー服へ ■

大正時代に女学校は本格的な開花期を迎えます。明治30年(1897)には50%だった女児の小学校の就学率も明治末年(1912)には98%にな るなど、女子普通教育が普及したこともあり、大正年間、高等女学校へ通う生徒数は大幅に増加します。大正2年(1913)には8万人だった生徒数は、昭和 3年(1928)には36万人近くまでに達し、女学生の大衆化が進みました。
また大正モダンの時代風潮の中、大正12年(1923)の関東大震災を境に生徒の間で洋装が増え始め、それとあいまって女学校でも洋装の制服が次々と採用 されていきます。中でも、既に明治末期に運動着として取り入れられていたセーラー服を、正式な通学用の制服として採用する学校が、昭和の初めには大半とな りました。洋装化と平行して、髪形も廂髪からお下げ髪、ボブスタイルなどの断髪へと変わっていきました。

7. 新式女子遊戯法 : 理論実際 / 高橋忠次郎,酒詰謙之助著
東京 : 榊原文盛堂, 明治37(1904)
【YDM75449】 [近デジ]
セー ラー服はまず体操服として取り入れられました。この写真はその一例で、詳細は不明ですが本書出版年の明治37年(1904)頃でしょうか。テニスやホッ ケーの道具を手にしており、「高等遊戯団」とあるので学生の運動選手かと思われます。廂髪にセーラー服という組み合わせが新鮮。

 

F. 女学生の改良服
(婦人画報 165号 大正8年11月 口絵 【YA5-1117】)
大 正9年(1920)頃から洋装制服を導入する動きが各地であらわれ始めました。下の写真では、その中でも最も早い試みのひとつ、山脇高女の大正8年 (1919)秋の洋装制服導入を伝えています(ここでは「改良服」と呼ばれています)。上の写真では東京女子師範の二階堂徳代女史考案のジャンパースカー ト風の通学服が紹介されています。
女学生の改良服

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8. 福岡女学院95年史 : 1885〜1980
福岡 : 福岡女学院, 1981
【FB22-1351】
全国でもかなり早く、大正10年(1921)にセーラー服を制服として採用しました。当時のリー校長の愛用していたセーラー服を基に作成したといい、夏服にはマリンブルーのギンガムチェック地が使用されていたことも記されています。

G. 広島女学院百年史 / 広島女学院百年史編集委員会編
広島 : 広島女学院百年史刊行委員会, 1991
【FB22-E620】
昭和2年(1927)当時としては、かなり珍しかったセーラー服の女学生オーケストラの写真。この「広島女学校管弦楽団」は、ロシア革命時に日本に亡命 し、この学校でヴァイオリンを教えていたセルゲイ・パルチコフ(後列中央)の指導のもと、大正15年(1926)に結成され、「日本では女学校の管弦楽団 は珍しい試みで各方面から驚異の眼」をもってみられたとのことです。

 

第二章 学校生活

女学生が世に登場して以来、「海老茶式部」や「堕落女学生」、「ハイカラ」といったさまざまなイメージが女学生を取り囲みました。しかし、そうした 世間のイメージの一方で、実際の女学生はどのような学校生活を送っていたのでしょうか?この章では、明治から昭和初期の女学生が過ごした学校生活の様子を 垣間見ていきたいと思います。

■ 女学校の時間割 ■

女学生たちは学校でどんなことを学んでいたのでしょうか?
明治32年(1899)の高等女学校令は、「女子ニ須要ナル高等普通教育」を行なうことを高等女学校の目的として定め、その具体的な教育内容として、修 身、国語、外国語、歴史、地理、数学、理科、家事、裁縫、図画、音楽、体操の12科目が規定されました。また、このほかに「随意科目」として、教育、手芸 が加わることもありました。なお、高等女学校と同じ中等教育機関である旧制中学校の学科には、家事、裁縫は含まれず、男女の教育内容には違いがありまし た。

H. 高等女学校令施行規則 甲号表 [PDFファイル]
(法令全書. 第34巻ノ3 / 内閣官報局編 複製 東京 : 原書房, 1982 p.52 【CZ-4-8】より作成)
修業年限4箇年の高等女学校における学科課程の標準を示した表です。国語についで裁縫の授業時間数が多くなっています。
I. 好きな科目・嫌いな科目
(女学校と女学生 : 教養・たしなみ・モダン文化 / 稲垣恭子 東京 : 中央公論新社, 2007 p.15【FC36-H166】)
関西の女学校10校の卒業生を対象としたアンケート調査のうち、科目の好き嫌いについての回答をグラフで表した図です。国語の人気が突出しており、女学生 の一典型である「文学少女」の多さがうかがい知れます。当時の女学校の特色とも言える家事・裁縫の人気はそれほど高くありません。なお、アンケートの調査 結果は、『関西地域における高等女学校の校風と女学生文化に関する教育社会学的研究』2002-2003【Y51-H14510276】(※関西館所蔵資料)にまとめられています。

◆良妻賢母主義
女学校教育では「賢母良妻タラシムルノ素養」、「優美高尚ノ気風、温良貞淑ノ資性」の涵養が目標として掲げられ、良妻賢母主義が、家事、裁縫などの科目に色濃く反映されていました。

9. 高等女学校用家事教科書. 下 / 佐方しづ,後閑菊野著
3版 東京 : 目黒書店〔ほか〕, 大正5(1916)
【YD5-H-11-192】
上巻では衣食住について、下巻では看病、養老、育児、経済について取り扱っています。家庭のことは万事にわたって女性の責務として記述され、主婦の責任が強調されています。
10. 裁縫教科書 : 実科高等女学校用. 巻1 / 今村順子著
再版 東京 : 成美堂書店〔ほか〕, 大正10(1921)
【YD5-H-11-453】
実 科高等女学校は明治43年(1910)の高等女学校令改正によって、高等女学校の農村部への普及を企図し、創設されました。その地方の実情にあわせた柔軟 な設置を可能としていた実科高等女学校では、一般の高等女学校よりさらに家事・裁縫などの技芸に重点が置かれていました。
11. 実践女子学園創立100周年記念写真集 / 創立100周年記念事業100年史編纂委員会編
〔東京〕: 実践女子学園, 1999
【FB22-G627】
大正13年(1924)の裁縫授業風景。

◆女子体育
女学校では、1週間に2時間〜3時間の体操が必修とされました。しかし、過度の運動はかよわくたおやかな伝統的な女性美を損なうのではないかという否定的 な意見が根強かったため、男子体育に比して、女子体育が定着するまでには時間がかかりました。一方の女子体育肯定派の主張も、欧米列強に対抗しうる頑強な 子どもを生む「母性」の育成という観点から形成され、「女性性」が強く意識されたものでした。
その後、体操服の改良と普及が進み、はつらつと運動する少女たちの姿が浸透すると、大正10年代には女子体育ブームが起こり、スポーツ少女が女学生の憧れの的となりました。

J. 「高等の女子体操」 滑稽新聞 第100号 明治38年7月20日 11面
(宮武外骨此中にあり : 雑誌集成. 第10巻 / 複製 東京 : ゆまに書房, 1994 【US21-E67】)
女子高等師範学校で行われたスウェーデン式体操の練習について「醜女の寄合」、「斯様なブザマの体操をやらせて何にするつもりだらう」など痛烈な言葉で揶揄しています。女子体育に対する反発の一例です。
12. 体育之理論及実際 / 井口あくり等著
東京 : 国光社, 明治39(1906)
【YDM75561】[近デジ]
それまで、女性が運動するための服装は存在しなかったため、女子体育の普及には服装が重要な問題でした。当初、女学生は袴姿で体操を行っていましたが、や がてセーラー服が着用されるようになります。通学服と同様、運動服も時代によって複雑に変遷しました。井口あくりは、日本で最初に体操服としてブルマーを 採用することを提言した人物で、女子体育教育の第一人者です。ボストン体操師範学校でスウェーデン式体操を学び、帰国後、女学生の指導、育成に携わりまし た。なお、ブルマーが実際に普及するのは大正末期のことでした。複製資料(女子体育基本文献集.第4巻 / 東京 : 大空社, 1994【FS11-E136】)あり。
田村富美子、山田澄子嬢

「番外として、硬球模範試合に出場された田村富美子、山田澄子嬢」

(女学世界 24(2) 大正13年2月 p.5【YA5-1067】)
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お茶の水附属女子高等学校卒業生の田村富美子(写真右)は「庭球界の女王」と呼ばれ、当時の女学生の憧れの存在でした。写真は、大正12年(1923)東京府立第二高等女学校で開催された女子庭球練習大会に参加したときのもの。

■ 学校行事 ■

運動会や修学旅行といった今では当たり前の学校行事も、明治・大正期には目新しかったのか、新聞や雑誌などでたくさん報じられています。
ちなみに、日本の学校における運動会は東京帝国大学が明治16年(1883)に行なった合同陸上競技会が最初とされています。また、修学旅行のはじめは明 治19年(1886)2月に東京師範学校が行なった11日間の行軍旅行で、房総方面の名所旧跡、地元の学校を見学しながら1日27kmの道程を踏破したと のことです。

◆運動会

K. 女子高等師範学校附属高等女学校第九回秋季運動会 / 桔梗
(風俗画報 279号 明治36年12月10日 口絵 復刻版 【Z11-617】)
大勢の観衆が取り囲むなか、運動に興じる女学生たち。和装、袴姿がほとんどですが、洋装の女学生も混じっています。「動物採取競争」「髪結競争」など、現代の運動会には見られない一風変わった競技の様子が見られます。
高等女学校第九回秋季運動会
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◆修学旅行

L . 一生に一度 : 地方女学生の東京見物 / 一記者
(読売新聞 明治45年4月24日 朝刊 5面 【YB-41】)
[館電] ※明治の讀賣新聞【YH231-650】でもご覧いただけます。
福島県立高等女学校の東京への修学旅行を紹介した記事です。東京見物の締めくくりには三越が予定されている、とのこと。
13. たちばなの歩み一〇〇年 : 長崎県立長崎高等女学校創立百年記念誌
長崎 : 橘同窓会, 2000
【FB22-G775】
大 正7年(1918)の長崎県立長崎高等女学校の島原・温泉(うんぜん)修学旅行の様子。県知事の許可を得て、この年初めて1泊旅行が実現しました。ちなみ に前年、大正6年(1917)の修学旅行では、午前6時出発、午後8時55分帰着の強行軍で海軍工廠など佐世保市内を見学しています。
■ 友人関係 ■

学校生活のなかでも大きな比重をなすのは、昔も今もやはり友人関係であると言えます。女学生は、おしゃべりや頻繁な手紙のやりとりを通じて親しい関 係を築きました。特に、独特の文体で感情表現豊かに書かれた女学生の手紙は、連帯感や信頼関係を育むのに重要な役割を果たしていたと考えられます。
そうした交友のなかから「エス」と呼ばれる、とりわけ親密で擬似的な姉妹関係が結ばれることもありました。「エス」とは「sister」の頭文字からくる語で、少女小説においてもロマンティックに描かれ、女学生文化として広がっていきました。
ところが、明治44年(1911)新潟で起きた女学校卒業生同士の心中事件を発端に、教育者やジャーナリストを中心として、女学生の親密な交友を危険視す る議論が巻き起こりました。しかし、それも女学生に対する清純なイメージが定着するとともに、徐々に思春期特有のプラトニックなものとして容認されるよう になっていきました。

14. 現代少女書簡文範 / 溝口白羊編
東京 : 誠文館, 大正1(1912)
【YD5-H-特108-128】
当時の「現代少女」たちが書いた「心の手紙」を集めて、一言評を付した資料。余韻を残すための「・・・」や笑い声をそのまま記すなど、旧来の書簡文の形式にとらわれない文体が用いられています。
15. 草の花 / 幸田文著
東京 : 中央公論社, 1959
【914.6-Ko475k3】
作家の幸田文の女子学院時代(大正6年(1917)〜大正11年(1922))の回想。下級生からラブレターをもらった経験や上級生と先生の間にエスの噂 があったことなどが書かれています。エスのような感情について「少女期の記念として誰にも大概はあることであらう」と記されています。
16. 現代少女とその教育 / 沼田笠峰著
東京 : 同文館, 大正5(1916)
【YD5-H-299-46】
当時、エスに対する過剰な警戒から、運動場で上級生と下級生が遊ぶことを禁じる女学校までもが現れました。『少女世界』主筆であった沼田笠峰は、ある程 度、予防手段を講ずることは教育上やむを得ない処置としながらも、「或る時期を待ちさへすれば、何時とはなく自然に冷めて行く」ものだと論じています。複 製資料(近代日本女子教育文献集. 第2期 第15巻 / 東京 : 日本図書センター, 1984【FA5-158】)あり。

第三章 女學生文化

高等女学校への進学率が上昇し始める明治43年(1910)ごろから次第に形成され、大正半ばから昭和10年代前半(1920〜30年代)にかけて 花開いたいわゆる「女学生文化」。12〜17歳の女学生たちには、可憐でロマンティックなものが好まれ流行しました。大正から昭和の初め、女学生文化が最 も華やいでいた当時の彼女たちが愛したものを、当館の所蔵資料からご紹介します。

■ 少女雑誌 ■

『少女界』(1902)、『少女世界』(1906)、『少女の友』(1908)、『少女画報』(1911)、『少女倶楽部』(1923)と相次いで 少女向け雑誌が創刊され、女学生の必需品といわれるまでに愛読されました。情報源の少なかった当時、様々なブームがこれら少女雑誌から生み出されます。美 しいカラーイラストや人気作家の少女小説に読者は夢中になり、掲示板コーナーや読者集会では読者同士の交流が深められました。投稿欄へ投稿した小説やイラ ストなどの作品が認められ、デビューすることもありました。

17. 少女界 10巻6号(臨時増刊) 明治44年5月
【VG1-102】 (布川文庫)[注4]
初 めて登場した少女向け雑誌です。『少年界』という少年向け雑誌の姉妹誌として、金港堂書籍から出版されました。後に作家として活躍する吉屋信子の女学校時 代の投稿作品で、三等に入選した「お伽噺 鳴らずの太鼓」が掲載されています。

出版界で広く活躍した布川角左衛門氏(1901-1996)が収集した約25,000点の出版関係コレクションで、雑誌や新聞の創刊号も含んでいま す。東京本館人文総合情報室でご利用いただくことができます。所蔵情報は、室内備え付けの「布川文庫閲覧用リスト」でご確認ください。NDL-OPACで は検索できませんのでご注意ください。資料の請求は16時までで閲覧許可申請が必要です。

注4)布川文庫について

M. 雑誌目次
(少女の友 20巻6号 昭和2年6月号 【Z32-412】)
多くの少女雑誌が発売される中、二大人気雑誌は『少女倶楽部』と『少女の友』でした。発行部数で群を抜いていた『少女倶楽部』は、主に小学校高学年から女 学校低学年を対象とし、地方の女学生が多く購読しました。少女小説や童話の他、受験の心得や時代物など内容は多彩でした。一方『少女の友』は、女学校高学 年までを視野に入れ、同じ少女小説でもよりロマンティックなものを掲載し、少女歌劇の特集をするなど、抒情性豊かで繊細な誌面構成となっており、都市部の 女学生に強い支持を受けました。
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■ 少女小説 ■

女学生には読書好きが多く、さまざまなジャンルの作品が読まれましたが、女学生特有のものといえば、少女向けに書かれたいわゆる少女小説です。女学 生同士の友情を優美に描いたもの、少女の成長を明るくユーモラスに綴ったもの、恵まれない主人公の立身出世を波乱万丈に物語ったものなど多彩な作品が生み 出されました。人気挿絵画家たちの挿絵ともあいまって、多くの少女たちが胸を躍らせました。どのような作品が読まれていたのか、いくつかみてみましょう。

18. 花物語 (上・中・下) / 吉屋信子著
中原淳一插画 東京 : 国書刊行会, 1985
【KH747-348】
大正5年(1916)、『少女画報』に投稿した「鈴蘭」が認められ、大正13年(1924)までに「雛芥子」、「ダーリヤ」、「睡蓮」など花に寄せた短編 52編が発表されました。ほとんどの少女小説が男性作家によるものであった当時、少女雑誌を愛読する女学生時代を送った著者の抒情性あふれる美文調の物語 は、読者から熱烈な支持を受けました。大正9年(1920)に最初の単行本が刊行され何度も版を重ねますが、昭和14年(1939)に刊行された中原淳一 の装丁挿絵の施された版は大人気となりました。展示資料は1939年版の表紙絵をそのままに、『少女の友』に再掲載された際の挿絵を収録しています。

中原淳一について
1930年代初め、『少女の友』の編集長中原基に見出された10代の中原淳一は、挿絵画家としてデビューし、昭和10年(1935)から表紙を担当するな ど『少女の友』の中心的な画家となります。ファッションセンスに優れ、独自のリリカルな画風で圧倒的人気を博しました。昭和15年(1940)、画風が時 節に合わないと批判され作品掲載を禁止されますが、ファンの少女たちの憧れはやまず、古本屋で過去の『少女の友』を集めて彼の作品を楽しむ姿も見られまし た。

19. 君よ知るや南の国 / 加藤武雄著
東京 : 大日本雄弁会, 大正15(1926)
【517-367】
『少女画報』に大正14年(1925)から連載されました。声楽家を目指す主人公が、両親亡き後苦難を乗り越え、愛と成功を勝ち得るという筋立てで、当時 としては珍しく男女の恋愛が描かれています。タイトルは女学生に愛唱されたオペラ「ミニヨン」の一曲に由来し、作中には他にも様々な愛唱歌が顔を出しま す。

20. 乙女の港 / 川端康成著 中原淳一插画
東京 : 国書刊行会, 1985
【KH254-32】
都会のミッションスクールに通う女学生と、彼女を「妹」と呼ぶ二人の上級生の「お姉さま」を描いた本作は、昭和12年(1937)から翌年にかけて『少女 の友』に連載され、一大ブームを巻き起こしました。この物語の影響で「エス」が急増したともいわれています。今では弟子の中里恒子の原作に著者が補筆した ものであることがわかっています。展示資料は1946年にひまわり社から刊行されたものを原本とし、『少女の友』連載時の挿絵を収録しています。
21. 紫苑の園 / 松田瓊子著
東京 : 甲鳥書林, 昭和16(1941)
【913.8-Ma74ウ】
の びやかに寄宿生活を送る少女たちの四季が描かれています。キリスト教を深く信仰する著者による、平和で西欧的な明るさが感じられる物語は、戦時色が濃くな る中で多くの少女たちに愛されました。大衆時代小説作家である野村胡堂を父に持つ著者は、オルコットやスピリを愛読し、早くから物語を創作していました が、若くして病没。作品の多くは遺稿として出版されました。
※マイクロフィッシュでのご利用となります。
■ 抒情画 ■

抒情画とは主に少女雑誌を彩ったイラストのことです。大正半ばに竹久夢二が描いたのが初めといわれます。浮世絵や日本画とは異なるタッチのロマン ティックな情景に少女たちは夢中になり、大事にスクラップする読者も多くありました。それぞれの画家にファンがつき、「華宵党」「まさを党」「虹児党」な どといって張り合うこともあったようです。『少女小説』の項でお見せした中原淳一以外の画家の作品をいくつかご紹介します。

22. 櫻のかげ / 高畠華宵
(少女画報 15(4) 大正15年4月 口絵 【Z32-551】)
高 畠華宵は、少年向きの挿絵で雑誌の売れ行きを左右するほどの人気を築き、ついで少女向けの抒情画や婦人雑誌のファッション画でも大変な評判を得ました。 「華宵ごのみの君もゆく」と流行歌「銀座行進曲」(昭和3年:1928)に歌われたことからも、その画風の人気ぶりがうかがえます。女学生同士の手紙のや りとりには、人気画家のイラスト付便箋が好まれましたが、華宵のものには、25万部を突破するヒット商品もありました。
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23. 消えゆく虹 / 加藤まさを著
東京 : 大日本雄弁会講談社, 昭和4(1929)
【YD5-H-特218-731】
加藤まさをは、大学在学中に発表した詩画集『カナリヤの墓』、『合歓の搖籃』が絶賛され、抒情画の代表的な画家となりました。ファンとの交流から得た女学 生風俗の知識を生かした作品は、女学生に親しみをもって強く支持されました。文学的才能にも恵まれ、詩や小説も多く発表しています。童謡「月の沙漠」は詩 人としての彼の代表作です。
24. 花嫁人形 : 抒情詩画集 / 蕗谷虹児著
東京 : 宝文館, 昭和10(1935)
【647-180】
蕗 谷虹児は、「抒情画」の名付け親で、日本画の手法を生かした独特の画風で人気を呼びました。大正14年(1925)〜昭和4年(1929)にかけてパリに 滞在しパリ画壇でも活躍します。アール・デコを取り入れた彼の作品は、ますます評価を高めました。まさをと同様、絵以外に詩や小説にも秀で、多くの詩画集 と小説、自叙伝を残しています。
25. 挿絵 / 松本かつぢ
(ケティー物語.家庭の巻 / クーリッヂ作 松原至大編 東京 : 富山房, 昭和12(1937) 【737-81】)
松 本かつぢは、華宵やまさを、虹児に続く新世代の画家として、中原淳一と人気を二分し、淳一が作品掲載を禁止された後の『少女の友』を支えました。エキゾ チックで華麗な抒情画を描く一方で、コミカルな漫画やユーモラスなイラストでも活躍しています。連載漫画「くるくるクルミちゃん」はグッズも多く発売さ れ、キャラクターグッズのさきがけとなりました。
■ 少女歌劇 ■

大正3年(1914)、宝塚少女歌劇の初公演は、華やかな舞台で大評判をとり、その後全国で次々と少女歌劇団が誕生しました。全国的な人気を誇った 宝塚少女歌劇団と松竹少女歌劇団は、激しいレビュー合戦を繰り広げます。男性との交際が厳しく戒められていた当時、颯爽とした男役のスターは女学生の憧れ の的でした。

N.宝塚レヴュウ画集 / 野島一郎編
東京 : 岡倉書房, 昭和9(1934)
【650-211】
日 本初のレビュー「モン・パリ」が大きな成功をおさめ、主題歌「すみれの花咲く頃」や「おお宝塚」が生まれるなど、宝塚少女歌劇団は昭和初期に第一次全盛期 を迎えます。男役では小夜福子、奈良美也子、葦原邦子、春日野八千代などが人気を競い、宝塚ファンの女学生には、「さよなら」を「小夜奈良」と書くことが 流行りました。葦原邦子は後に中原淳一と結婚し、大きな話題となりました。パネルは、レビュー「花詩集」の様子です。
O.少女歌劇
東京 : 松竹少女歌劇団  3巻4号 昭和10年6月
【Z11-760】
松 竹少女歌劇団の機関誌。宝塚少女歌劇にヒントを得た松竹楽劇部が大阪で誕生し、東京公演が好評であったことから昭和3年(1928)、東京松竹楽劇部が発 足、昭和8年(1933)に松竹少女歌劇団となりました。東京を拠点に活動し、「ターキー」という愛称で親しまれたスター、水の江瀧子を生み出します。少 年のように短く髪を切った男役は彼女が初めてで、男装の麗人として多くのファンを魅了しました。

主要参考文献

◆図書◆
明治の女子教育 / 日本女子大学女子教育研究所編
東京 : 国土社, 1967
【376.9-N691m】
近代日本服装史 / 昭和女子大学被服学研究室〔編〕
東京 : 近代文化研究所, 1971
【GD64-4】
服装の歴史. 2 / 村上信彦著
東京 : 理論社, 1974
【GD64-15】
女子学生の歴史 / 唐沢富太郎著
東京 : 木耳社, 1979
【FD4-104】
日本の童画 第5巻、第6巻
東京 : 第一法規出版 1981
【KC511-52】
女学生の系譜 : 彩色される明治 / 本田和子著
東京 : 青土社, 1990
【FD37-E52】
少年小説大系 第24巻、第25巻
東京 : 三一書房, 1993
【KH6-358】
高等女学校の研究 : 制度的沿革と設立過程 / 高等女学校研究会編 複製
東京 : 大空社, 1994
【FC36-E223】
夢のレビュー史 : すみれの園宝塚桜咲く国OSK・SKD / 菅原みどり著
東京 : 東京新聞出版局, 1996
【KD597-G10】
日本の教育課題. 第2巻 / 佐藤秀夫,寺崎昌男編集代表
東京 : 東京法令出版, 1996
【F5-G2】
幸田文全集. 第23巻 / 川村二郎〔ほか〕編
東京 : 岩波書店, 1997
【KH274-E14】
近代子ども史年表.明治・大正編 / 下川耿史編
東京 : 河出書房新社, 2002
【EC153-G116】
日本における実科中学校・高等女学校史研究 / 山村俊夫著
東京 : 啓明出版, 2003
【FC36-H26】
おめとエス / 赤枝香奈子
(性の用語集 / 井上章一,関西性欲研究会[著] 東京 : 講談社, 2004 pp.267-274 【GA36-H35】)
高畠華宵 : 大正・昭和・レトロビューティー / [高畠華宵][画] 松本品子編
東京 : 河出書房新社, 2004
【KC229-H57】
ブルマーの社会史 : 女子体育へのまなざし / 高橋一郎,萩原美代子,谷口雅子,掛水通子,角田聡美著
東京 : 青弓社, 2005
【FS11-H73】
明治もののはじまり事典 / 湯本豪一著
東京 : 柏書房, 2005
【UR1-H101】
女學生手帖 : 大正・昭和乙女らいふ / 弥生美術館,内田静枝編
東京 : 河出書房新社, 2005
【EF72-H273】
少女歌劇の光芒 : ひとときの夢の跡 / 倉橋滋樹,辻則彦著
東京 : 青弓社, 2005
【KD597-H27】
松本かつぢ : 昭和の可愛い!をつくったイラストレーター / 内田静枝編
東京 : 河出書房新社, 2006
【KC482-H545】
女学校と女学生: 教養・たしなみ・モダン文化 / 稲垣恭子著
東京 : 中央公論新社, 2007
【FC36-H166】
◆雑誌記事◆
女学校生徒に於ける課外読物の一調査 / 松本金壽, 安積すみ江
(教育 4(4)1936.4 pp.104-113【雑59-65】)
女子青年の読物調査 / 小林さえ
(教育 6(11)1938.11 pp.31-43【雑59-65】)
1920-30年代高等女学校における洋装制服の普及過程--洋服化志向および制服化志向の学校間差異に注目して / 桑田 直子
(日本の教育史学 通号39 1996 pp.116-139 【Z7-555】)
小論 「少女小説」かけ足の百年史(小特集 少女小説の知的なたくらみ) / 横川寿美子
(飛ぶ教室 (2) 2005.07 pp.86-89【Z71-P267】)

 

 

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