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第2回本の万華鏡「洋靴―足元からの文明開化―」第1章(1)

2009年9月16日
リサーチ・ナビ本の万華鏡第2回 洋靴―足元からの文明開化―>第1章(1)

第1章 洋靴事始(1)

目次

  現在、日常の履物として私たちの生活に欠かせない西洋式の靴―洋靴―は、明治時代に開化の風物として人々に広く知られるようになりました。もちろん、それ以前にも洋靴の存在は知られており、また、古墳の副葬品や正倉院宝物にも様々な靴がみられるように、日本に靴がなかった訳ではありません。しかし、身近な履物として、多くの人々が洋靴と接するようになったのは明治以降のことでした。

 

第1節 幕末~明治の使節団と靴 

  この節では、幕府から派遣された万延元(1860)年、文久2(1862)年の使節団と慶応元(1865)年の軍制等調査団、明治政府から派遣された岩倉使節団一行の、洋靴との関わりが分かる資料を中心としてご紹介いたします。

 

§1 万延元(1860)年遣米使節団と靴

  副使として派遣された村垣範正の『遣米使日記』には、「天地開闢以来初て異域の使命を蒙り君命をはつかしむれは神州の恥辱と成なんことゝおもへはむねくるしき事かきりなし」とあり、国の代表としてまだよく知られていないアメリカの地に派遣された使節ならではの緊張感が伝わってきます。→該当箇所[近デジ]

  使節団が大統領に出会った様子は、第1回本の万華鏡「アメリカ大統領の歴史」第3章「日本人、アメリカ大統領に出会う」でも紹介しています。


1.航米日録 / 玉蟲左太夫著 (日本思想大系 66 / 東京 : 岩波書店,1974【HA5-7】)

  仙台藩士であった玉蟲左太夫は、正使・新見正興に従って米軍艦ポーハタン号でアメリカに渡ります。
  途中に寄ったハワイでは、「晴雨定ラズ、晴天ニシテ忽チ雨来リ、道路常ニ湿」っていて、靴を持っていないために歩くのに 大変苦労する、「戸外一歩モ行ク能ワズ」と街に出て靴を買っています。
  「他ノ求ムル者大抵銀一個半ト云フ」(以上p.26)と記されていることから、玉蟲以外にもハワイで靴を買った人がいたようです。

 

2.The New York Herald 万延元年.4.29 (西暦1860.6.17)(万延元年遣米使節史料集成 第6巻/ 日米修好通商百年記念行事運営会編  東京 : 風間書房, 1960-61 【210.593-M175-N】)

  本書は第Ⅱ部が「アメリカ合衆国新聞記事」となっており、万延元年の使節団一行を取り上げたアメリカの新聞記事をみることができます。
  使節団一行の中には、新しい帽子をかぶっている人もいれば、白や黄色のキッド革の靴や、エナメル革の靴を履いた人もいたことが分かります。(p.215)

 


3.福翁自伝 / 福沢諭吉述 ; 矢野由次郎記  東京 : 時事新報社, 明治32(1899).6【YDM7253】[近デジ]

  咸臨丸は、初めて太平洋を渡った日本の軍艦として有名ですが、ポーハタン号に乗った使節団の護衛と遠洋航海の実地訓練も兼ねていました。福沢諭吉はその咸臨丸に乗船し、初めてアメリカの地を踏んでいます。
  咸臨丸の水夫たちは草鞋履きでした。初の太平洋横断航海を終えてアメリカのサンフランシスコに到着した水夫たちの足元は、草鞋に潮水がしみこんで散乱し、すっかりみすぼらしくなっていました。「桑港着船の上艦長の奮発で水夫共に長靴を一足づゝ買て遣て夫れから大に体裁が好くなった」ということです。→該当箇所[近デジ]
  文久元(1861)年に「皮履之儀も、御軍艦方等船中を限相用候儀者不苦」(石井良助,服藤弘司編『幕末御触書集成.第3巻』1993.4【AZ-145-E23】p.29)と、軍艦方は船中に限って革靴を履いても良いという御触れが出たのは、この経験が反映されているのかもしれません。
  サンフランシスコに着いた福沢は、日本では高価な絨毯が部屋一面に敷かれているのに驚き、また、その上を土足で歩くアメリカ人に驚いています。→該当箇所[近デジ]

 

4.異国の言の葉 / 嘉八( 万延元年遣米使節史料集成 第4巻/ 日米修好通商百年記念行事運営会編  東京 : 風間書房, 1960-61 【210.593-M175-N】)

  嘉八は蒸気方火焚役として咸臨丸に乗船しました。サンフランシスコに上陸して、市街を見物し、「日本江渡り居り候通りの着類にて男女は不及申、四五歳計の小児迄沓をはき」(p.322)と、子どもまで靴を履いていることに驚いています。

 

 

§2 文久2年(1862)遣欧使節団と靴

5.懐往事談 : 附・新聞紙実歴 / 福地桜痴著 東京 : 民友社, 明治27(1894).4 【YDM101723】[近デジ]

著者の福地桜痴(源一郎)

福地桜痴

  出発の準備にあたって履物をどうするかが問題となり、議論の末、「西洋の靴なんど相用ひては神州の大恥辱なり宜しく草鞋の用意致すべし」という結論になります。さらに、どの部署が草鞋の準備を担当するか、どんな草鞋が良いかなどでも散々揉めます。→該当箇所[近デジ]
  また、上海で一行の某が洋靴を買って履いたことでも「国風を紊(みだ)る」として悶着となりました。→該当箇所[近デジ]

 

 

 

 

6. 西洋衣食住 / 片山淳之助著  慶応3(1867)【383-Ka597s】(福沢全集 / 福沢諭吉著  東京 : 時事新報社, 明治31(1898)【YDM102528】[近デジ]にもあり)

『西洋衣食住』の洋靴を紹介したページ

西洋衣食住

  『西洋衣食住』は、福沢諭吉が片山淳之助の名で西洋の文物を分かりやすく紹介したもので、万延元年、文久2年の二度にわたって使節団の一員として欧米に赴いた経験が活かされていると言えるでしょう。刊行当時(慶応3(1867)年)には、まだ人々にあまり馴染みがなかった洋靴を、「常ノ沓ハ日本ニテ雪駄ノ代ナリ長沓ハ雨天ノ時下駄ノ代リニ用ヒ又ハ馬上ニ用ユ上沓ハ家ノ内ニテ上草履同様ノ所ニ用ユ」と、身近な履物と対応させながら分かりやすく説明しています。→『福沢全集』の該当箇所[近デジ]

 

 

§3 慶応元(1865)年の軍制等調査団と靴 

7.懐往事談 : 附・新聞紙実歴 / 福地桜痴著  東京 : 民友社, 明治27(1894).4 【YDM101723】[近デジ]

  柴田剛中一行は、軍制調査などのため幕府からフランス、イギリスに派遣されました。柴田は、革靴を履くことは認めましたが洋服を着て笑われては国威を殞(おと)すとして禁じました。→該当箇所[近デジ]
  革靴を認めた背景には、柴田が国を代表する外交使節としてではなく、あくまで調査のための特命理事官として派遣されたことも関係していたかもしれません。(→参考文献6 p.4)
  本書の「是は初度の使節および鎖港談判使節一行の行状に付随文中外の批難を聞たるとありしが故なり」との記述から、第1回の使節団の何人かが靴を履いたり西洋式の帽子をかぶったりしたことが、幕府内で非難を受けた可能性も推測されます。

 

§4 岩倉使節団と靴

岩倉大使一行(明治四年米国にて)

岩倉大使一行

  アメリカ到着直後、明治4年12月14日(西暦1872年1月23日)にサンフランシスコで撮影された使節団の正使・岩倉具視と副使たちの写真(→参考文献11 p2)です。副使らが揃って洋装であることから、洋装が国威を殞(おと)さないとみなされつつあることがわかります。そんな中、岩倉の髷、和装に洋靴、シルクハットの和洋折衷の姿が印象的です。(写真は、永見徳太郎編『珍らしい写真』昭和7(1932)年【423-457】より)

 

8.ミカド : 日本の内なる力 / W.E.グリフィス著  東京 : 研究社出版, 1972【GB415-19

  福井藩の理科教師として来日後、大学南校でも教えたグリフィスは、明治6(1873)年1月1日、新年拝賀のため皇居を訪れ天皇に拝謁しています。その時の様子を記した中に、「私が古風な衣裳を着たミカドを再び見たのは、宮中においてであった。(中略)睦仁は真紅と白の衣を着、みぞのある高い金色の羽毛のついた冠をつけ、二匹の「高麗犬」の上にすえられた玉座の椅子に坐っていた。その左右には、宮廷の高官が二列に並んで立っていた。この人々はさまざまな色の風変わりな衣裳を着て、まるで一組のカルタの絵を見るようであった。ただし、みな近代的な革靴をはいていた。」とあります。
  前年の明治4年11月21日(西暦1872年1月1日)には、日本の新聞草創期に活躍したブラックが横須賀行幸時の天皇の姿を、「服装は純白で、袴は赤色、歩くと、両手は大きなひだのなかに隠れるようだ。(中略)またよく磨かれた皮の長靴も忘れてはなるまい。」(J.R.ブラック著『ヤング・ジャパン. 第3』平凡社, 1970【GB383-4】p.173)と記しています。
  当時の公的な場において、岩倉のような和洋折衷姿は特異なものではなかったようです。
  明治天皇が散髪したのは明治6年3月20日。文明開化の装いは、頭より足元が先でした。

 

9. 保古飛呂比 : 佐佐木高行日記.5 / 佐佐木高行著 ; 東京大学史料編纂所編纂  東京 : 東京大学出版会, 1974GK125-3

著者の佐佐木高行

佐佐木高行

  岩倉が髷を落とし、洋装に変わったのは最初の訪問国・アメリカのシカゴでのことでした。これに対して、使節団の一員で「例ノ頑固論」であると自ら任じる佐佐木は、岩倉は他の団員と違って太平洋上でもアメリカ到着後も日本流だったのに、途中で変えるのはあまりにも軽率、と批判的です。しかし、そんな佐佐木にとっても、「当今ノ時勢ナレバ、断髪モ洋服モ善カルベシ」、「各国一週帰朝ノ上、各国の形勢ヲ奏聞シテ、然ル後断髪トシ、改服アリタレバ、大臣ノ体裁ヨカルベシ」(pp.288-289)と、洋装を採用していくこと自体は時勢として許容せざるを得ないものとなっていました。

 

 

10.特命全権大使米欧回覧実記 / 久米邦武編  東京 : 博聞社, 明治11(1878).10【YDM22194】[近デジ]

  久米邦武の編になる『米欧回覧実記』は、岩倉使節団の公式報告書として出版されました。使節団は、条約改正に向けた交渉のほか、新しい国をつくる参考とするために欧米各国の制度や産業を視察することも大きな目的としていました。このため、精力的に工場なども視察しており、ボストンとサンクトペテルブルクでは製靴工場を視察しています。
  ボストンでは、製靴工場と衣服の縫製工場を見学し、どちらにも蒸気で動く機械があり、男女500人が働いていることが記されています。→該当箇所[近デジ]
  サンクトペテルブルクでは、ひとつの靴の革を締めるにも、一般の靴屋には機械がないので6時間かかるところ、工場では機械を使うので6時間で10足を締めることができる、と機械化された軍靴工場の様子が記されています。→該当箇所[近デジ]
  また、ヨーロッパの女性の盛装について、足の細いのを美とし「履ニテ足掌ヲ括スル」のは習慣によるが、健康上は「美事ニアラス」と批判的に紹介しています。→該当箇所[近デジ]

 

コラムロゴコラム  オランダ人のかかと 

  洋靴のヒール部分が奇異に映ったためでしょうか。江戸時代には、「和蘭人は天質(うまれつき)跟(かゝと)なし」という風説があったようです。
  慶応4(1868)年に京都を訪れたイギリスの外交官・ミットフォードは、祇園の芸妓の少女二人が「どうしても靴下を脱いで私の足を見せてくれと言ってきかなかった。」(ヒュー・コータッツィ著『ある英国外交官の明治維新 : ミットフォードの回想』1986.【GB383-64】p.143)と記しています。
  少女たちは風説を実際に確認しようとしていたのでしょうか。

 

蘭説弁惑 2巻 / 大槻磐水述 ; 有馬文仲記  勢州 : 山形屋東助, 天明8(1788)序,寛政11(1799)【YD-古-3170

『蘭説弁惑』の「阿蘭陀國人図」

阿蘭陀國人図

  本書は、江戸時代後期の蘭学者・大槻磐水(玄沢)が、世間に流布しているオランダに関する誤った見解を正した説を、門人の有馬文仲が記したものです。
  オランダ人が描いたオランダ人男女の着衣と裸の絵、あわせて4枚の模写を紹介しながら、国が違えば衣服や言語、眼や肌の色は異なっても、身体の基本的な仕組みは同じであることを、「運用をなすはみな同じ事なり」と説明しています。うち、「阿蘭陀國人図」では、男性が現在のミュールのような形のかかとの部分が高い靴を履いています。

 

 

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第2節 明治政府と洋靴の導入 

  幕末、開港された横浜などに外国人技術者が来日し、日本でも洋靴の製造・販売が始まりました。しかし、この時期、日本人が洋靴を履くことはまだ一般的ではありませんでした。文久元(1861)年の御触れでは、軍艦方が船中で履く以外は革靴を履くことを禁じていたことを第1節でご紹介しましたが、同じ御触れで、百姓や町人についても仕事柄革靴を履く必要がある場合以外で革靴を履くことを禁じており、仕事柄必要な場合であっても外国製に紛らわしい仕立て、すなわち洋風であることを禁じていました。

  洋靴は、明治政府が様々な場面で靴を採用していくことによって、人々の間に広まっていくことになります。

 

§1 軍靴

  洋靴の導入は、まず軍から始まりました。

11.練兵天覧ノ節須知条件 明治3年4月5日 兵部省(法令全書 慶応3年10月-明治45年7月 / 内閣官報局  東京 : 内閣官報局, 明20-45 【YDM31130】) [近デジ]

  明治政府の号令のもとに兵士が揃って靴を履いたのは、明治3年4月17日(西暦1870年5月17日)、駒場野で行われた練兵天覧の時だったようです。諸藩の兵隊、御親兵隊、遊軍隊等から臨時に編成した、歩兵九連隊、砲兵五隊、騎兵若干、造兵などが参加したという大規模なもので、桜田門外から駒場野まで行軍し、練兵を行いました。
  練兵天覧に向けて様々な準備が行われますが、明治3年4月5日に兵部省から出された「練兵天覧ノ節須知条件」に、「一 兵隊一統沓相用可事」とあります。
  練兵天覧に参加した中村準九郎の「始めて靴を穿ちたり」という談話も残されています(陸軍省編『明治軍事史 : 明治天皇御伝記史料.上』原書房, 1966 (明治百年史叢書)【392.1-R52m】p.56)。

  なお、この練兵天覧については、『太政官日誌』などからも様子を知ることができます。
太政官日誌 / 東京 : 太政官, 慶応4(1868)-明治9(1876) 【YDM31042】→該当箇所[近デジ]

 

12.日本の軍装 :  図鑑. 下巻 / 笹間良彦著 東京 : 雄山閣出版, 1970【GB45-1

 軍装史                                                                                                    西南戦争時の軍装
  幕末から第二次世界大戦時までの軍装が白黒で描かれています。
  軍での洋靴使用は、洋靴が人々の間に広まる前から始まっていたため、生れて初めて履いた靴が軍靴、という兵士も少なくありませんでした。そのため、当初は馴染みのある草鞋と新しく導入された靴とを履きわけていたようです。本書の挿絵でも、西南戦争時の軍装は草鞋と靴両方が書かれています(草鞋は左から二人目の人物)。
  「明治十年の西南の役の時は軍靴の使用を痛切に感じたのであるが、まだ軍用には適せず、やむなく草鞋を携帯した。それでも隊伍にあるものは力めて軍靴の使用に馴れる事に腐心したが、長途の行軍には耐へられず、草鞋を使用したものだった。また履用者も馴致せず、製作技術も多少の缺點(欠点)があった為であらう。」(東京靴同業組合編『靴の発達と東京靴同業組合史』昭和8【641-47】pp.73-74)

 

13.文明開化の錦絵新聞 : 東京日々新聞・郵便報知新聞全作品 / 千葉市美術館編 東京 : 国書刊行会, 2008.1【UC126-J1

「台湾征討従軍記」の錦絵新聞

文明開化の錦絵新聞

  台湾出兵に随行した東京日日新聞記者の岸田吟香が書いた、日本の従軍記事の先駆けである「台湾征討従軍記」(東京日日新聞 明治7.6.10【YB-6】)は好評を博し、同年10月に錦絵新聞も出版されました。描いた絵師は台湾出兵に随行したわけではありませんが、錦絵新聞では兵士は洋服に草鞋を履いています。

 

14.開化大津絵節 / 永島辰五郎編・画  東京 : 小林宗次郎, 明治12(1879).8 【YDM74307

『開化大津絵節』の「当時流行のいくさ人」

開化大津絵節

  大津絵節は、幕末から明治にかけて流行し、たくさんの替え唄が作られました。明治初期に出版された「開化大津絵節」では、開化の風物も唄われています。画像は、兵隊の様子を唄ったもので、

  当時(たうじ)流行(りうかう)のいくさ人(にん) まんてるずぼんに靴(くつ)をはき...

  と、靴を履いている様子も唄われています。
  明治3年の練兵天覧から約10年。兵隊が揃って靴を履く様子が人々の身近になってきていることがうかがわれます。

  当館では、『開化大津絵ぶし』【YDM74308】[近デジ]、『開化大津ゑ・かっぽれぶし・葉唄・都々一吹分』【YDM74303】[近デジ]、『新選開化大津ゑ』【YDM74340】[近デジ]など、数種の開化大津絵節を所蔵しています。

 

§2 靴の外昇降を禁ず~官公庁からの広がり

15. 御車寄始沓ノ儘昇降ヲ許ス 明治4年12月14日 太政官達(法令全書 慶応3年10月-明治45年7月 / 内閣官報局  東京 : 内閣官報局, 明20-45 【YDM31130】)[近デジ]

  明治4年12月14日(西暦1872年1月23日)に、官吏が12月17日から靴のままで庁舎に入ることを許可する太政官達が出されました。

 

16. 沓ノ外昇降ヲ禁ス 明治4年12月27日 太政官布告 (法令全書 慶応3年10月-明治45年7月 / 内閣官報局編 東京 : 内閣官報局,明20-45【YDM31130】) [近デジ]

  靴のまま、というのを、土足でも良いという意味に解したのでしょうか。草履のまま登庁した人もあったようです。太政官達の意図は西洋式にしたい、ということだったようで、同年12月27日(西暦1872年2月5日)には、草履では体裁が悪いので今後は靴以外での登庁は不可、という布告が出されています。

 

17. 靴の外昇降を許さず(朝野新聞 明治19(1886).5.2 【YB-134】)

  官公庁以外にも「靴の外昇降を禁ず」るところは広まっていったようです。
  この記事では、「靴の外昇降を許さず」として、「帝国大学総長よりの達しに基き、学生々徒ハ昨日より一同靴の外昇降を許されざることとなり其他の者と雖ども靴を穿ざる者ハ玄関より昇降を許さゞる趣を掲示せられたり」と報じられています。
  ただ、靴はなかなか高価で簡単に入手できるものではない中、「靴の外昇降を禁ず」るのは無理があったのでしょう。明治23(1890)年には、警視庁、逓信省、大蔵省などで次々に靴以外での昇降を許すようになったことが報じられています。

 

 

 

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