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東アジアの『三国志演義』: アジア情報室通報 第10巻第4号

アジア情報室通報 第10巻4号(2012年12月)
金文京(京都大学人文科学研究所教授)

一 はじめに

中国、明代の小説『三国志』(正式には『三国志演義』)は、江戸時代初期の翻訳『通俗三国志』以来、日本では多くの読者をもち、現在でも漫画やコンピューターゲームを通じて広く親しまれている。外国の小説でこれほど日本人に愛される作品は、他にはおそらく例がないであろう。また日本には、中国ではすでに無くなった『三国志演義』の古いテキストが数多く残されている。似たような状況は、日本とともに古くから漢字文化圏の一員であったお隣の韓国にも見られるが、両国の受容のあり方には、共通点だけでなく違いもある。以下、『三国志演義』が中国でどのように成立し、それが東アジア漢字文化圏の朝鮮半島、日本にどのように伝播、普及したのかを、主に現存するさまざまなテキストを紹介しながら述べてみたい。

二 元代の『三国志平話』と東アジア

三国時代の物語は、正史の一つである歴史書、陳寿(233-297)の『三国志』が書かれて以後、長い時間をかけて文芸化が進んだが、現存する最古の作品は、元代後期(14世紀前半)の小説『三国志平話』である。明代初期(14世紀後半)の人、羅貫中の『三国志演義』も、この『三国志平話』にもとづいて書かれた。「平話」は「評話」とも書き、歴史書についての評論から派生した話という意味であると考えられる。『三国志平話』の内容は、『三国志演義』とおおむね共通するが、異なる部分もある。まずその発端は、『三国志演義』が黄巾賊の乱と桃園結義から始まるのに対して、次のような話になっている。

後漢時代、司馬仲相という書生が夢で冥土の裁判を行うことになり、漢王朝の建国の功臣で、後に漢の高祖、劉邦と呂后によって殺された韓信、彭越、英布の三人の訴えを受け、韓信の軍師であった蒯徹の証言により、韓信を曹操に、彭越を劉備に、英布を孫権に、また劉邦、呂后を献帝と伏皇后に転生させ、曹操に伏皇后を殺させることで前世の罪滅ぼしをさせる。また蒯徹と司馬仲相は、その功績により、それぞれ諸葛亮と司馬懿に転生した。

この話は仏教の因果応報と輪廻転生説の影響を受けたもの、あるいは当時の「平話」は、『武王伐紂平話』(周代)、『秦併六国平話』(戦国、秦代)、『前漢平話』(漢代)と時代を追ったシリーズになっていたので、劉邦や韓信たちの活躍する『前漢平話』と連続させるため、このような話を作ったとも考えられる。いずれにせよ歴史性を重視する『三国志演義』では、この話は削除されている。

また『三国志演義』は呉の滅亡と晋の統一をもって終わっているが、『三国志平話』の結末では、漢の一族である劉淵が漢王朝を復活させ、晋を滅ぼすことになっている。劉淵が漢を建国したことは史実であり、漢王朝の復活を目指す劉備を主人公とする以上、結末としてはあるいは平話の方がふさわしいかもしれない。しかし平話には言及されていないが、劉淵は実は匈奴族の出身であった。劉淵は、漢代に皇族の女性が匈奴の王と政略結婚したことを根拠に漢の皇族を自称したのである。この結末には、匈奴と同じく異民族であるモンゴル族の元王朝を、漢民族の南宋王朝の正統な後継者と見なそうとした、当時の漢民族知識人の願望が反映していると考えられる。その元を滅ぼして漢民族の王朝を復興した明代の作品である『三国志演義』に、この結末が採用されなかったのは当然であろう。すなわち『三国志平話』、『三国志演義』は歴史小説ではあるが、その内容には当時の政治状況、あるいは民族と国家という思想的問題が影響しているのである。

『三国志平話』は、元の至治年間(1321-1323)、建安(福建省北部)の本屋、虞氏によって刊行された(建安虞氏『至治新刊全相平話三国志』)。この本は上部に挿絵(「全相」はすべてに挿絵があること)、下部に文章を配した上図下文形式で、後世の連環画につながる一種の絵本であり、挿絵が精巧なのに対して文章には省略が多い。中国では早くになくなったようで、現存するのは日本の国立公文書館内閣文庫(もと江戸幕府の蔵書)に所蔵される一本のみ、天下の孤本である。また天理図書館には、この本の粗雑な翻刻本である建安書堂刊『至元新刊全相三分事略』が所蔵されているが、この本も中国にはもはやない。

つまり三国時代の物語を扱ったもっとも古い小説は、日本にのみ現存する。ただし日本にはこの本についての記録は見あたらない。『三国志平話』についてのもっとも古い記録は、朝鮮半島の高麗で、中国語を学習する目的で作られた教科書『老乞大』(14世紀後半)に見える。その中の高麗商人が元の大都(現在の北京)で買い物をするリストの中に『三国志評話』があるのが、それである。当時の高麗は元の属国として密接な関係にあり、『老乞大』の記述は、おそらく高麗人が実際に『三国志評話』を購入した事実を反映したものであろう。一方、中国では、現存最古のテキストである明の嘉靖本『三国志通俗演義』(1522)の序文に、「前代(元代)嘗(かつ)て野史を以って作りて評話と為せり」と触れられているのが唯一の記録である。このことは、朝鮮半島と日本が古くから『三国志』に関する文学作品を受容して来た事実とともに、中国に現存する資料だけでは、この小説の成立史の全貌を知ることができないことを物語っていよう。

三 明代の『三国志演義』テキストと海外の伝本

現存最古のテキストである嘉靖本『三国志通俗演義』24巻には挿絵がないかわりに、字体などは大変立派で、また字の四隅に○で中国語の声調を示す声点がついている。このように声点をつけたテキストは内府本(宮廷出版書)の特徴であり、この本も内府本の系統を引くものと思われる。そのためか、この本は中国では上海図書館などに所蔵があるが、海外にはほとんど伝わっていない。これに対してやはり嘉靖年間に福建の本屋、葉逢春が刊行した『新刊通俗演義三国志史伝』10巻(1548)は、『三国志平話』と同じ上図下文形式で、文字にも誤りが多い(ただし嘉靖本の誤りを訂正できる部分もある)。この本はスペインのエスコリアル王立修道院図書館に所蔵されるものが唯一の伝本である。おそらく往時の大航海時代、珍しい中国の絵本としてスペイン商人が買い求めたのであろう。

万暦年間(1573-1620)以降、中国では商業出版が急速に発達し、『三国志演義』もさまざまなテキストが刊行されるようになるが、それらは前記の嘉靖本の系統を引き、全頁の挿絵を附した12巻本と、葉逢春本に連なる上図下文の20巻本に大別される。前者は主に南京、後者はもっぱら福建で刊行された。これら商業出版による『三国志演義』テキストは、その多くが現在、日本とヨーロッパに所蔵されている。たとえば万暦20年(1592)福建の余氏双峰堂刊『三国志伝』は、京都の建仁寺、英国のケンブリッジ大学、ドイツのシュトゥットガルト(Stuttgart)市図書館などに分蔵され、中国にはない。これは特に福建の出版物が地理的関係から海外に流出しやすく、中国ではかえって粗悪なテキストとして珍重されなかったためであると思える。

一方、韓国では最近、朝鮮王朝時代の銅活字本(丙子字 1516)『三国志通俗演義』の残巻と南京出版の周曰校刊『三国志伝通俗演義』の覆刻本が相次いで発見された。ともに挿絵のない本で、前者は宮廷での銅活字出版であることから、その底本は嘉靖本と同じく内府本系統であると思え、また後者の底本は南京の本屋の出版物ではあるが、やはり挿絵のない嘉靖本に近い。周曰校は後に挿絵を附したテキストも刊行しているが、こちらは日本の内閣文庫にも蔵本がある。朝鮮は毎年、中国に朝貢使節を送っていた関係で、北京の宮廷周辺から本を輸入することが多かった。この点、長崎貿易を介して海路で南方の書物を輸入した江戸時代の日本とは対照的である。

四 『三国志演義』と『花関索伝』

明代の『三国志演義』諸テキストには、それぞれ内容上の特色があるが、中でももっとも顕著なのは、関羽の架空の息子である関索あるいは花関索とよばれる人物をめぐる話の扱い方である。初期の嘉靖本と葉逢春本には関索、花関索は登場しない。それに対して、周曰校本など南京刊行のテキスト、およびその系統を引く清代の毛宗崗本(現在もっとも普及するテキスト)では、諸葛孔明が雲南征討に出発する時に、突如、関索が現れ従軍するが、いつの間にか消えてしまう。一方、余氏双峰堂刊本など福建刊行のテキストでは、荊州にいる関羽のもとに息子の花関索が母と妻を連れて現れ、その後、四川で奮戦するが、最後は雲南で病死することになっている。なお福建のテキストには、双峰堂刊本などとは別に、文章を節略したものがあるが、節略本での関索の話は南京刊行のテキストと同じであり、関索、花関索の話の有無と、その話の内容によって、『三国志演義』テキストの系統を分類することができる。

この関索、花関索なる架空の人物については、従来その背景について疑問がもたれていたが、1967年、中国上海市郊外の嘉定県の明代墳墓から、成化本説唱詞話『花関索伝』が発見されて、物語の全貌が明らかになった。この本は明の成化14年(1478)、北京の永順書堂が刊行したもので、やはり上図下文形式であるが、小説ではなく、散文(説)と韻文(唱)を組み合わせた詞話(語り物の一種)である。物語のあらすじは次のとおり。

桃園結義の時、劉備は独身、関羽と張飛には妻がいた。劉備が、妻がいたのでは力を尽くせないと不満を言うと、関羽と張飛は互いの妻を殺すことにする。しかし関羽の妻は妊娠中のため、張飛は殺すに忍びず、そのまま立ち去る。やがて関羽の妻は男子を出産するが、その子は7歳で迷子となり、富豪の索員外に拾われ、道士の花岳先生について山中で修行、のち山中の霊水を飲んで神通力を獲得し、母のもとに帰り花関索と名乗る。そして母とともに父、関羽を尋ね旅に出て、道中、武芸達者な美女と試合をして勝ち、妻にするなど数々の冒険を経て、関羽と対面し、以後、劉備のために活躍するが、劉備の義理の子、劉封と争い、雲南に流罪となる。そこで病気になりいったん死ぬが、花岳先生の霊薬で再生し、関羽の仇を討つ。しかし劉備が死んだため失意のあまり最後はついに病死する。

この物語は『三国志』の枠組だけを利用した荒唐無稽な話であるが、花関索という英雄の異常な出生と冒険、そして悲劇的な死に至る一生を描いた一種の英雄叙事詩であると言えよう。先に述べた福建系『三国志演義』の花関索の話は、基本的に『花関索伝』に見えており、『花関索伝』をもとに、その一部を小説に取り入れたのであろう。これに対して南京系統の関索の話は、元代の『三国志平話』に淵源がある。『三国志平話』では、諸葛孔明の南征の際、不危城というところで太守の呂凱と戦うが、そこに「関索詐(いつわ)りて敗れる」という一節がある。しかし関索の名は、ここ一個所にしか見えないので、平話の中で彼がどのような役割を果たしていたのか詳細は不明である。これは平話の文章に省略が多いためであるが、孔明の南征に従軍する点は南京系統の話に一致する。

ちなみにここに見える呂凱がいた不危城というのは、架空の地名であるが、それは、呂凱は秦代の呂不韋(始皇帝の実父)の子孫であったとする陳寿『三国志』「呂凱伝」にもとづく。「不韋(ブウェイ)」と「不危(ブウェイ)」は中国語では同音だからである。『三国志演義』の葉逢春本のこれに相当する部分(卷8「孔明興兵征孟獲」)では、孔明が永昌太守の王伉に、「誰が公と同(とも)に守り、以って危うき無きを保つや」と尋ねると、王伉が、それは呂凱であると答える場面がある。この「以保無危」の「無危」は、『平話』の「不危」を継承したものであろう。つまり葉逢春本は、『平話』を利用しつつ関索の話は削除したことになる。嘉靖本の同じ個所では「無危」が「無虞」(虞(おそ)れ無し)となっていて、『平話』からさらに遠ざかっている。

このように関索、花関索の話は、元代の『三国志平話』にあったものが、明代の嘉靖本、葉逢春本の段階でいったん削除され、その後『花関索伝』などをもとにもう一度、挿入されたと考えられる。このような複雑な経緯をたどったのは、明代後期になって『三国志演義』の出版をめぐる競争が激化し、それぞれのテキストが特色を出す必要があったからであろう。この時期のテキストには、湯賓尹、李廷機、張瀛海など、科挙試験に首席で合格した高官の名前を校正者として冠したものがあるが(ただし偽託である)、これも売らんがための商業戦略であった。これは『三国志演義』と並ぶ小説『水滸伝』が、異端の知識人、李卓吾の批評を附しているのとは対照的である。ただし明代末期になると、『三国志演義』にも李卓吾先生批評と銘打つものが現れる。これは『三国志演義』が、『水滸伝』的な小説観に合流したことを意味しよう。この時期、『水滸伝』と『三国志演義』を合刻したテキストが出版されたのは、その現れである。

五 『三国志演義』の翻訳

『三国志演義』の外国語訳としてもっとも早いものは、満州語訳(1650)である。明朝を滅ぼし清朝を建てた満州人は、一方で中国文化を吸収するため、多くの書籍を満州語に翻訳したが、これもその一環であった。また中国を征服するに当たって、モンゴル人の協力を得るため、満州を劉備、モンゴルを関羽に見立てたので、『三国志演義』を重視したという説もある。満州語訳の底本は嘉靖本で、おそらく明の内府本を利用したのであろう。

満州語訳に次ぐのが、元禄4年(1691)刊の湖南文山訳『通俗三国志』である。訳者の湖南文山は、天竜寺の僧、義轍と月堂の別名とする説、また当時、『通俗漢楚軍談』などを翻訳した夢梅軒章峰、称好軒徽庵とする説などがあるが、不明である。またその出版には、京都の商人、西川嘉長が関係したが、西川は朝鮮との外交文書を扱う対馬の以酊庵で『三国志』の講談を聞き、翻訳の出版を思い立ったとする資料もある。『通俗三国志』巻頭の「或問」には、豊臣秀吉の朝鮮侵略の時、宰相であった柳成龍の「関王廟記」が引かれており、朝鮮との関係がうかがわれる。なお『通俗三国志』の底本は、李卓吾批評本であると考えられ、原文にほぼ忠実であるが、『太平記』など軍記物の文章を利用した潤色が見られる。

一方、朝鮮ではすでに述べたように、中国の『三国志演義』の銅活字本と覆刻本が早い時期に出版されている。これは日本にはなかったことであるが、朝鮮では原文で読める人が多かったからであろう。そのためハングルによる翻訳が出たのは、ようやく19世紀になってからであり、しかもそれは主に漢文の読めない女性のためであった。ちなみに朝鮮に『三国志演義』が伝わった時期も日本より早く、『宣祖実録』の2年(1569)6月20日の条には、大臣の奇大升が国王(宣祖)に対して、『三国志演義』のような小説を読まないよう諫めた記事がみえる。ただしそれが一般に普及したのは、豊臣秀吉の侵略、いわゆる壬辰倭乱(1592)の後で、それには援軍として朝鮮に来た明の軍隊が、関羽信仰を持ち込んだことがひとつの契機になっている。現在、ソウルの東廟をはじめ、韓国各地に関羽を祀る廟があるが、それらはすべて明軍の要請によって建てられたものであり、柳成龍の「関王廟記」もその際に書かれたものであった。

日本人にとっての『三国志演義』は、歴史小説または娯楽小説で、関心はもっぱらストーリーの面白さや登場人物の魅力にあるだろうが、中国におけるこの小説の成立と変遷、また朝鮮半島での受容には、それぞれの時期の政治的、軍事的な情勢が影響をあたえているのである。

(きん ぶんきょう)

(本稿は第12回関西館小展示「時空をかける三国志」の関連イベントとして2012年10月27日に行われた講演会「東アジアの三国志演義」の講演内容にもとづいて執筆されたものである。)

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