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日本占領期インドネシア刊行資料について―国立国会図書館関西館所蔵Indonesian imprintsを中心に―:アジア情報室通報 19巻1号

冨田 暁(国立国会図書館関西館アジア情報課非常勤職員・岡山大学客員研究員)

はじめに

アジア・太平洋戦争の開戦後、日本軍は1942年1月にはオランダ領東インド(現在のインドネシアに相当)でも占領を進めていった。当地では、陸軍がジャワ島やスマトラ島を、海軍がボルネオ島南部(旧オランダ領ボルネオ)や東インドネシアを管轄する体制が構築され、1945年8月まで現在のインドネシアは日本の占領下に置かれた。

日本占領期インドネシアに関する研究は国内外で多数存在し、それらで使用される資史料も、軍政関係の公文書、戦史や部隊史、ならびに元軍人・元行政職員および当時在留していた民間人の回想録や手記などのほか、日本占領期にインドネシアで刊行された刊行物など多岐にわたる[1]

本稿では、そうした資料のなかでも、日本占領期インドネシアで刊行された資料[2]について、国立国会図書館関西館(以下当館)の所蔵資料、特にIndonesian imprints[3]【YD5-MST1】を中心に紹介を行う。

図 Indonesian imprintsのマイクロフィッシュの一部

1.Indonesian imprintsの概要

Indonesian imprintsは、日本占領期のインドネシアで刊行された刊行物の中から、106点の書籍・新聞・雑誌などを採録し、IDC(Inter Documentation Company)社がマイクロフィッシュ化して刊行した資料集である[4]。日本では当館以外に、京都大学東南アジア地域研究研究所図書室、関西大学図書館、中央大学中央図書館、東北大学附属図書館の所蔵がCiNii Books[5]から確認できる。

この106点の刊行物は、アメリカのコーネル大学アジア研究学科東南アジアプログラム現代インドネシアプロジェクトの一環として1963年にジョン・M・エコルズ(John M. Echols)によって編纂された『日本時代(1942年3月-1945年8月)のインドネシア刊行物予備チェックリスト(Preliminary Checklist of Indonesian Imprints During the Japanese Period (March 1942‒August 1945) with Annotations)』[6](以下『予備チェックリスト』)に掲載されている250点から採録されている。『予備チェックリスト』からの採録基準は明確ではないが、採録された106点の刊行物はいずれもコーネル大学図書館が所蔵するものであった。また、採録された刊行物には、欠落や欠号があったり、複数の巻や号にわたる場合に一部のみを採録したりしているものが複数存在し[7]、マイクロフィッシュ番号はNo.1-462とNo.720-828の間で番号が飛んでいる。

Indonesian imprintsには収録刊行物の著者・タイトルリストが本来付属しているよう[8]だが、当館所蔵のものには欠けている[9](利用の便宜のため、当館アジア情報室で作成したリストを公開している[10])。

なお、1983年には、『日本占領期のインドネシアにおける刊行物目録(Perpustakaan Nasional, Katalog Terbitan Selama Pendudukan Jepang di Indonesia, [Jakarta]: Perpustakaan Nasional, 1983)』【UP6-150】がインドネシア国立図書館(Perpustakaan Nasional Republik Indonesia)によって編纂されている。この目録には、『予備チェックリスト』との重複物を含め、合計437点の刊行物が掲載されているが、この目録も当時のインドネシアの全刊行物を掲載している訳ではない[11]

2.収録刊行物の使用言語・刊行地

Indonesian imprintsに収録された刊行物の殆どは、翻訳作品も含め、ローマ字表記のインドネシア語を使用しているが[12]、ジャワ語やスンダ語のような地方語で書かれたものや、同一内容の書籍でインドネシア語版と地方語版があるものも存在する。

日本占領期インドネシアでは、オランダ語の使用が禁止され、日本語の普及・教育が図られた。教育分野ではインドネシアと地方語(ジャワ語、スンダ語、マドゥラ語など)が用いられ、行政・広報といった分野でもインドネシア語が広く使用されたが、町から離れるとインドネシア語は殆ど通じなかったとされる[13]

Indonesian imprints収録刊行物の刊行地はジャワ島が多数で、スマトラ島のものもあるが、その他の刊行地は見当たらない[14]

3.収録刊行物の紹介

以下では、Indonesian imprints収録の刊行物を部分的に紹介する(書誌情報は一部省略し、刊行物名は当時の表記を用いる)。

以下、〈 〉内のNo.が付いた番号は、Indonesian imprintsのマイクロフィッシュ番号に、その右側に続く《 》内の番号は、『予備チェックリスト』内の番号に対応する。[ ]内は執筆者補記である。

3-1.語学・辞書

『日常日本語-インドネシア語・インドネシア語-日本語辞典(Kamoes harian Nippon-Indonesia, Indonesia-Nippon)』〈No.136-140〉《147-139》や『日馬小辞典(Nichi-ma shojitan)』〈No.103-106〉《89》などのような辞書のほか、『日本語会話用教科書』〈No.25-27〉《21》、『日常日本語ラジオ講座』〈No.159-160〉《164》、『初等学校用日本語教科書』〈No.177〉《201》などのような日本語教科書が複数採録されている。日本語表記はローマ字が基本だが、平仮名や片仮名で表記されることもある。また、オランダ語話者インドネシア人向けの日本語教科書〈No.113〉《99》や漢字の読み書き用の教科書〈No.101-102〉《88》なども収録されている[15]

日本語関連以外では、インドネシア人用の中国語教科書〈No.99-100〉《86》、スンダ語-インドネシア語辞典〈No.152-153〉《161》、インドネシア語-ジャワ語辞典〈No.133-135〉《134》などの語学本・辞書があるほか、『古ジャワ語(Djawa-koena)』〈No.32-33〉《26》および『古ジャワ語-現代ジャワ語釈義(Kawi-Djarwa)』〈No.141〉《140》のような古語に関する文法書や語彙集などもある。

3-2.インドネシアの文芸・歴史・文化・社会など

本項目では著者がインドネシア人と考えられるものを挙げる。

古典や民話としては、『古写本版ヒカヤット・パンジ・スミラン[スミラン王子物語]―12の挿絵付―(Hikayat Pandji Semirang menoeroet naskah lama : dihiasi dengan 11 boeh gambar)』〈No.40-41〉《38》やスンダ語で記されたスンダ地方の民話・伝承集である『諸伝承 第1巻(Dongeng-dongeng sasakala: djilid ka-1)』〈No.5〉《5》が収録されている。小説には、『間作―季節の変わり目の小説Palawidja: roman pantjaroba』〈No.35-36〉《32》や『祖国を愛する(Tjinta tanah air)』〈No.49-50〉《51》などがある。

歴史・文化・宗教に関しては、スマトラ島沖合の島の歴史・文化・社会について記された『血の島―オランダ人の獰猛さがムンタワイの人々を殺す―(Poelau darah: keboeasan bangsa Belanda memboenoeh bangsa Mentawai)』〈No.7〉《7》、スマトラ島出身の著名なウラマー・作家であるハムカ(Hamka)による『スマトラで輝くイスラム(Bersinarnja Islam di Soematera)』〈No.6〉《6》、アラビア文字表記(ジャウィ)で書かれた『イスラム共同体の闘争史論集(Beberapa penggalan dari sedjarah perdjoeangan oemmat Islam)』[16]〈No.20〉《11》、スマトラ島の対オランダ闘争の英雄を描いた『シンガマンガラジャ12世の戦い(Perdjoeangan Singamangaradja jang ke 12)』〈No.116〉《108》、『大東亜史とジャワ史に関する小論(Sedikit tentang sedjarah Asia Timoer Raja dan sedjarah tanah Djawa)』[17]〈No.132〉《131》などがある。

文芸以外でのこれらの分野の収録刊行物は、スマトラ島が刊行地である割合が比較的高い。また、歴史作品は対オランダ闘争の性格を持つ作品が多い。

これらの他にも、『プンチャック(Pentjak)[18]』〈No.171〉《172》やジャワ語で書かれたジャワの儀礼・慣習に関する『礼儀作法(Tatatjara)』〈No.179-181〉《207》などが収録されている。

3-3.日本(人)の文芸・歴史・文化・社会など

本項目では、著者が日本人あるいは主題が日本の文芸・歴史・文化・社会に関する刊行物をあげる。

文芸作品には、日本語とインドネシア語の対訳形式で記された詩歌集『時の聲―この戦時における詩―(Soeara zaman: sjaʼir dan pantoen pada masa perang ini)』〈No.172-173〉《186》やインドネシア語で書かれた随筆集である『椰子が風に揺れる(Njoer melambai)』〈No.186-187〉《211》のほか、インドネシア語訳の作品として、塩谷栄が英語で記した忠臣蔵の解説・演目要約書(【Ea-288; 792.0947-S555c】)の訳本〈No.28-30〉《23》や櫻井忠温の日露戦争戦記『肉弾―旅順実戦記―』の訳本〈No.148-150〉《146》などがある。

日本の歴史・文化・社会に関しては、『日本史(Sedjarah Nippon)』〈No.114-115〉《103》、『相撲(Soemo)』〈No.170〉《170》、『一般向け日本の歌(Njanjian Nippon oentoek oemoem)』[19]〈No.168-169〉《168》、南方に出征した日本人学徒兵の体験記である『学徒出陣(Dari sekdah kemedan perang)』〈No.174-175〉《187》などがあり、これらの多くは日本語の原作からの翻訳である。

また、『戦時の日本!―ジャワの訪日代表団が得た簡潔な印象―(Nippon di masa perang!: kesan ringkas jang didapat selama toeroet dalam sekawan oetoesan Djawa melawat ke Nippon (2603))』〈No.37-38〉《35》は、1943年9月に訪日したインドネシア使節団の日本滞在記である。

3-4.法令・軍政・軍事関係

『官報(Kanpō: Berita pemerintah)』〈No.277-319〉《242》および『治官報(Osamu Kanpo)』〈No.375-389〉《246》は、軍政当局(軍司令官から州長官や市長といったレベルまで)が公布・発行した布告や政令をまとめたものである。両者とも、『治官報・KAN PO』[20]として復刻刊行されている。日本語で記された『治官報』は当地の日本人を対象に編集され、「治(おさむ)」の名称はジャワの軍政を担当した陸軍第16軍の部隊名に由来する。インドネシア語で記された『官報』はインドネシア人への伝達を目的にしており、補足や解説が付け加えられている。それらのため、『官報』と『治官報』の内容は完全に一致している訳ではない[21]。その他、法令に関するものとして、『軍政刑事令解説(Gunsei keizirei kaisetu)』〈No.87〉《70》などもある[22]

『ジャワ防衛義勇軍教練教程(Djawa Bōei Giyugūn Kyōren-kyōtei)』〈No.59-66〉《58》は、1943年10月に創設され、日本軍の監督下でインドネシア人将兵によって編成されていたペタ(ジャワ防衛義勇軍。PETA: Tentara PembelaTanah Air)の訓練教程本であり、日本語とインドネシア語の対訳形式で書かれている。

『国民奉公会諸規則(Peratoeran-peratoeran Himpoenan Kebaktian Rakjat)』〈No. 191〉《214B》は、1944年3月に軍政への協力のためにジャワ島で設立された翼賛的大衆組織であるジャワ奉公会の規則・体制をまとめたものである。

その他にも、戦陣訓とスマトラ島における義勇軍に関する『戦陣訓と義勇軍(Sendjinkoen dan Tentera Soekarela)』〈No.41−42〉《40》などがある。

3-5.新聞・雑誌・年鑑

新聞[23]・雑誌・年鑑は、Indonesian imprints全体の中で多くの分量を占める。

現地発行の新聞の特別記念号として、1942年にジャカルタで創刊した日刊紙『アシア・ラヤ[大アジア]』の特別記念号〈No.8-12〉《8》、〈No.13-16〉《9》や、スマランで発行された新聞の『シナル・バル[新しい光](スマラン)一周年記念号(Sinar Baroe (Semarang). Nomor setahoen peringatan)』〈No.162-167〉《167》、バンドンで1942年に発行された新聞『チャハヤ[輝き](Tjahaja)』の「大アジア(Asia Raya)」建設記念号〈No.176〉《189》があり、いずれもインドネシア人と日本人の双方に渡る執筆者によって、原則的にインドネシア語で書かれている。

『カナジヤワシンブン―週刊紙―(Kana Djawa Sinbun: koran mingguan)』〈No.320-329〉《243》は1943年12月からインドネシア人を対象に片仮名表記の日本語で発行された週刊新聞である[24]

雑誌としてはまず、『ジャワ・バル[新ジャワ](Djawa Baroe)』〈No.209-273〉《240》が収録されている。これは、1943年1月から月2回発行された、日本語とインドネシア語双方の記事が掲載されたグラフ誌であり、復刻版が刊行されている[25]。『新ジャワ(Shin Java)』〈No.408-422〉《249》は1944年10月に創刊された日本語月刊誌であり、これも復刻版が出ている[26]

『東洋文化(Keboedajaan Timoer)』〈No.330-336〉《244》は、1943年発行の、詩や小説、インドネシアやアジア各地の文化情報などを掲載したインドネシア語の年刊誌である。

『ミナミ[南]―月刊グラフ誌―(Minami: Madjallah boelanan bergambar)』〈No.337-374〉《245》は、スマトラ島のメダンで1942年から発行された、インドネシア語の月刊グラフ誌である。内容は国内外の時事ニュースや論説が多い。

『軍人(Pradjoerit)』〈No.390-407〉《248》は、ペタの成員向けに1944年から発行されたインドネシア語の週刊誌である。

『ミアイの声―イスラム雑誌―(Soeara M.I.A.I.: Madjallah Islam)』〈No.423-462〉《250》は、イスラーム諸団体の連合体として1937年にインドネシアで設立されたミアイ(MIAI: Majelis Islam A'laa Indonesia)が1943年1月から隔週で発行した機関誌であり、後に誌名が変更された[27]

『パンジ・プスタカ[図書の旗](Pandji Poestaka)』〈No.720-828〉《247》は、バライ・プスタカ(Balai Pustaka)[28]刊行の、インドネシア語を主に使用した週刊総合誌であり、創刊自体は日本占領期以前に遡る。『東洋文化』と『パンジ・プスタカ』では著者(寄稿者)が重なることも少なくない[29]

年鑑は、1943年と1944年の『アシア・ラヤ年鑑(Almanak Asia-Raya)』〈No.192-197〉《215, 216》、スマトラ島のメダンで刊行された、1942年の『大東亜年鑑(Almanak Dai Toa (Asia Timoer Raja))』〈No.198〉《217》、1944年の『スアラ・アシア年鑑 [皇紀]2604年(Almanak soera Asia 2604)』〈No.205-207〉《220》、日本語の年鑑として1944年の『ジヤワ年鑑(Jawa Nenkan)』[30]〈No.199-204〉《218》が収録されている。

3-6.その他

収録刊行物のその他の例としては、プロパガンダ用の刊行物のほか、医学・健康・農学・航海学・マニュアルなどのような学術書・教本・実用書を挙げることができる。これらには、薬用植物を扱った『植物学―薬剤師(薬剤師助手)学校用―(Ilmoe toemboeh-toemboehan: oentoek dipakai di sekolah djoeroe-obat (assistent-apotheker))』〈No.143-144〉《143》、農学書の『ジャワで綿を育てる(Bertanam kapas di Djawa)』[31]〈No.49〉《49》、公文書・手紙・演説といったインドネシア語文章の様式・用例集(説明文もインドネシア語)である『規則への歩み―インドネシア語文章・スピーチの書―(Langkah ke atoeran: bokoe soerat menjoerat dan pidato-pidato dalam bahasa Indonesia)』〈No.145-146〉《144》、ジャワ島の名士録である『ジャワのインドネシア人名士(Orang Indonesia jang terkemoeka di Djawa)』〈No.117-122〉《109》などがある。

おわりに

Indonesian imprints収録の様々な刊行物は、法令、時事ニュース、論説・エッセイ、小説・詩・歌、語学、歴史・文化、写真・図表、マニュアル・教本、人名録、宣伝・広告などに渡る、多彩な分野・内容を有し、それらは日本軍政期インドネシア社会の諸相を読み解くための大きな手がかりとなる[32]

Indonesian imprints収録の刊行物を日本国内で網羅的に所蔵している機関は上述のように僅かであり、部分的に所蔵している機関も少ない。そのため、それらを一度に閲覧・利用できるIndonesian imprintsの利便性・有用性は大きい。しかし、Indonesian imprints収録の刊行物が当該期インドネシア刊行物の一部に過ぎないことや、復刻版が存在するならば復刻版を参照した方が良い場合が多いこと[33]には留意が必要である。

近年では、1943年6月からスマトラ島パダンで発行された日本語日刊紙『スマトラ新聞』[34]、日本海軍が管轄したボルネオ島南部の三地域でそれぞれ刊行された日刊紙『ボルネオ新聞』[35]、ジャワ島で1942年3月から発行された日刊紙『共栄報』[36]など、インドネシア刊行資料の新たな復刻刊行も進んでおり、これらと共にIndonesian imprintsを利用することで、日本占領期インドネシアに関連する研究の様々な可能性と成果が更に期待できるであろう。

(とみた あき)



[1] 研究(史)や資史料の概要については次を参照。前川佳遠理「日本占領下東南アジア研究史」東南アジア学会監修, 東南アジア史学会40周年記念事業委員会編『東南アジア史研究の展開』山川出版社, 2009, pp.199-214.【GE511-J12】;インドネシア日本占領期史料フォーラム編『インドネシア日本占領期文献目録』(南方軍政関係史料 31)龍渓書舎, 1996.【GE3-G4】
 【 】内は国立国会図書館請求記号。ウェブサイトの最終アクセス日は2021年2月8日。

[2] 日本占領期にインドネシアで刊行された刊行物の概要については次を参照。姫本由美子「日本占領下インドネシアで読まれた刊行物―知識人とその他に分断された社会を映し出した鏡―」『アジア太平洋討究』34, 2018, pp.167-212.

[3] John M. Echols et al., Indonesian imprints 1942-1945 on microfiche, Leiden: IDC, [1986?].

[4] 刊行年は1986年と推定されている。

[5] https://ci.nii.ac.jp/books/

[6] John M. Echols, Preliminary Checklist of Indonesian Imprints During the Japanese Period March 1942‒August 1945 with Annotations, Ithaca: Cornell University, 1963. (https://hdl.handle.net/2027/coo.31924015724150) リストには、著者名・書名・刊行年・刊行地といった書誌情報と簡単な内容紹介が付されている。リストに掲載された刊行物の半数以上はコーネル大学図書館所蔵のものである(Ibid., p.1.; 姫本 前掲注(2), p.170.)。また、リスト編纂の目的として、①1960年までにおけるインドネシアの文献目録(文献情報)という唯一の大きな穴を埋めること、②コーネル大学図書館が所蔵する当該期インドネシアに関する資料を示し、ひいてはアメリカ国内のインドネシア関係資料について幾ばくかの情報を供与することが挙げられている(Ibid.)。

[7] 欠号箇所のマイクロフィッシュには、欠落した資料が利用可能になり次第、マイクロフィッシュを購入者に送付する旨(This volume is not available yet. The microfiche numbers in the title are reserved for this book. These fiches will be sent to all subscribers as soon as the volume has become available.)が記されている。

[8] WorldCatに収録されている書誌情報(OCLC No.:52600829)では「Accompanied by printed author/title list (4 p.).」とある。

[9] 現在の販売元であるブリル(Brill)社のウェブサイトで著者・タイトルリストが閲覧・入手できる(https://brill.com/view/title/16084?rskey=SzmzZ6&result=1)。インドネシア国立文書館(ANRI: Arsip Nasional Republik Indonesia)のホームページからも、「Daftar Arsip Microfische Cornelll Libary Colection Seri Indonesian Inprints 1942-1945」(恐らくは、「Daftar Arsip Microfische Cornell Library Collection Series Indonesian Imprints 1942-1945」の誤記)というタイトルのリストが入手できる(https://anri.go.id/sekitar-arsip/arsip-statis/sarana-temu-balik-arsip/daftar-arsip)。

[10] Indonesian imprints https://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-asia-160.php

[11] 姫本 前掲注(2), pp.169-171.

[12] 同時期には、「ムラユ語(マレー語)」と表記されることもあるが、本稿では実際の刊行物のタイトルに言及する場合を除いて、表記を「インドネシア語」に統一する。
日本占領期インドネシアでは、1944年5月に創刊された『アッ=シュウラ(Asj-Sjoe'lah)』のように、アラビア文字インドネシア語(マレー語)を用いた雑誌も創刊されていた(山口元樹「イスラームの文字,マレーの文字―独立期インドネシアにおけるジャウィ復活論とマラヤとの関係―『東南アジア研究』58(2), 2021, p.149.)。

[13] 姫本 前掲注(2), pp.195.

[14] ジャワでは印刷された刊行物を軍政当局に献納する制度が存在したが、ジャワと管轄の違う地域との間で刊行物の献納義務制度が存在したとは考えにくいとされる(同上, p.169-171.)。

[15] 当時現地で刊行された日本語教科書の幾つかは復刻版として刊行されている。(大日本軍政部ほか編, 倉沢愛子解題『日本語教科書』(南方軍政関係史料 9)龍渓書舎, 1993.)【AZ-652-E21】

[16] 注11で述べた『アッ=シュウラ(Asj-Sjoe'lah)』(1944年5月創刊)の創刊一周年記念号。

[17] インドネシアのイスラーム指導者に対する講演を元に作成され、インドネシア語、ジャワ語、スンダ語で書かれている。

[18] 日本の空手に似た伝統武道。

[19] 34曲の日本語の歌の数字譜と日本語の歌詞がローマ字表記で記されている(丸山彩・織田康孝「《八重潮》の成立と展開―日本軍政下のジャワにおける公募歌曲―」『立命館平和研究』19, 2018, p.38.)。

[20] ジャワ軍政監部・倉沢愛子編『治官報・KAN PO』龍渓書舎, 1989.【CZ-12-E-2】

[21] 倉沢愛子「解題」ジャワ軍政監部・倉沢愛子編 前掲注(19), p.1-12.

[22] 復刻刊行されている軍政規定には、以下のものもある。(爪哇軍政監部編, 倉沢愛子編・解題『ジャワ軍政規定集1』(南方軍政関係史料 14)龍渓書舎, 1994.)【AZ-652-E21】

[23] 1941年〜1945年に東南アジアで発行された新聞の概要は、早瀬晋三「日本占領・勢力下の東南アジアで発行された新聞」『アジア太平洋討究』27, 2016, pp.61-100を参照。

[24] 1942年12月から発行された日本語日刊紙『ジヤワ新聞』と共に、復刻刊行されている。(『ジヤワ新聞―復刻版―』(南方軍政関係史料 44)龍渓書舎, 2013-2017.)【Z99-1148】

[25] 倉沢愛子編『ジャワ・バル―新ジャワ―』(南方軍政関係史料 8)龍渓書舎, 1992.【AZ-652-E21】

[26] 倉沢愛子編『新ジャワ』(南方軍政関係史料 4)龍渓書舎, 1990.【AZ-652-E21】

[27] 日本軍政のもとで1943年10月にミアイが解散し、新団体のマシュミ(正式名は、インドネシア・ムスリム協議会。Majelis Syuro Muslimin Indonesia: MASYUMI)が設立されると、機関誌名も1944年1月から『インドネシアのムスリムの声(Soeara Moeslimin Indonesia)』に改名された。

[28] 1917年にオランダ植民地政府によって文化事業局として設立されて以降、図書の翻訳事業や印刷物の出版活動などで大きな役割を果たした。Indonesian imprintsおよび当時インドネシアで刊行された刊行物にはバライ・プスタカ刊行のものが少なからず存在する。バライ・プスタカについては、姫本 前掲注(2), pp.185-197を参照。

[29] 同上, p.182.

[30] 復刻版が刊行されている(『ジヤワ年鑑―昭和19年―』ビブリオ, 1973.【GE8-25】)。

[31] 同書のジャワ語版(Nandoer kapas ing Tanah Djawa〈No.48〉《50》)も存在する。バライ・プスタカで日本占領期に刊行されたその他の教本・実用書には、インドネシア語版と共に地方語版が刊行されたものや地方語訳版が幾つも存在する(姫本 前掲注(2), pp.191-195.)。

[32] そうした刊行物から、日本側のプロパガンダ的性質を看取する視点を超え、現地側の主体性や日本側と現地側の相互作用といった様相を捉えようとする主張や研究もなされている(姫本 前掲注(2))。

[33] 文字や画像がより鮮明かつ、Indonesian imprintsでの欠落・欠号が補われている場合が多い。

[34] 江澤誠監修・解題『スマトラ新聞』ゆまに書房, 2017.【Z99-1195】

[35] 早瀬晋三編集・解題『ボルネオ新聞 復刻版』(南方軍政関係史料 46・48)龍渓書舎, 2018-2019.【Z99-1209】
中部版が1942年12月から日本語版とインドネシア語版で、東部版が1943年4月から日本語版とインドネシア語版で、西部版が1943年8月から中国語版とインドネシア語版で、それぞれ発行された。

[36] 津田浩司編集・解題『復刻 共栄報 1942-1945年』ゆまに書房, 2019.【DC851-C299】(中国語版);【Y735-TS-4939~4956】(インドネシア語版)
『共栄報』は、中国語版とインドネシア語版(1942年9月から発行)とが別々に発行された。

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