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トルコの資料と同国の歴史・政治事情:アジア情報室通報 19巻2号

内藤 正典(同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授)

国立国会図書館関西館アジア情報課では、蔵書構築の参考とするため、定期的に外部有識者の意見を聴取している。令和2年12月17日、内藤正典 同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授をお招きし、トルコの資料及び同国の歴史・政治事情等についてお話しいただいた。本稿は、その概要を当課でまとめたものである。

(関西館アジア情報課)

1. トルコの資料に関する基礎知識

トルコの資料についてまず押さえておくべきなのは、オスマン帝国時代に用いられたオスマン語と現代トルコ語では、使用される文字が全く異なるという点である[1]

(1) 現代トルコ語

現代トルコ語は、ラテン文字で表記される[2](図1)。現代トルコ語は、オスマン帝国(1299~1922年[3])の崩壊後、1928年にトルコ共和国初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルク(Mustafa Kemal Atatürk. 以下「アタテュルク」[4])が文字改革を断行してアラビア文字表記からラテン文字表記に切り替え、さらに、アラビア語・ペルシア語から様々な語彙が混ざっていたものをトルコ語に純化させようとする国家政策の中で作られてきた。その意味で、人工的な要素のある言語である。

図1 現代トルコ語の文字
現代トルコ語の文字の画像

(2) 現代トルコにおけるオスマン語資料の扱い

一方、オスマン帝国時代に成立したオスマン語は、アラビア文字で表記される(図2)。実を言うと、現代トルコ人の多くは、オスマン語を読むことができない。彼らは、基本的にラテン文字で教育を受けており、自国の100年前までの文献を読めない場合が多いのである。

図2 オスマン語の文字
オスマン語の文字

読めないだけではなく、2002年に現在の公正・発展党(AKP)政権ができるまで、トルコでは近代化=西洋化であるということが主張され、イスラーム国家[5]であったオスマン帝国を否定的に扱うことで、近代国家としてのトルコを称賛するという風潮が強かった。特に、建国の父アタテュルクの路線を引き継ぐ世俗主義[6]の人々は、イスラームが公に出てくることを嫌っており、とりわけ軍は、世俗主義の牙城として、政治家の間にイスラーム色の強い人物が出てくると、政治に介入してこれを排斥するということも何度か起こした。そういった状況にあり、トルコ人の間には、オスマン帝国時代の文学、詩、歴史文書等を勉強しなければならないという意識が薄かった。過去のオスマン的、イスラーム的なものを排除して、新しい国へ転換したと考える風潮が非常に強かったのである。

歴史学の研究者でも、オスマン語を読めるのは、オスマン史を専門としているような限られた人しかいなかった。トルコの知識人たち、つまりトルコ共和国のかつての支配層は、自らを西洋人と位置づけていたために、オスマン帝国時代の文物に対して概して否定的であったといえるだろう。

しかしながら、600年以上に及ぶオスマン帝国の膨大な蓄積に封をしてしまったのは、非常に惜しいことであった。オスマン帝国は、確固たる軍の制度や人材登用制度を有し、イスラーム法による規範が確定していた国で、軍事資料、租税資料、裁判資料等々、大量の史料の蓄積があったのである。現在でも、イスタンブールにある文書館[7]には、膨大な量のオスマン帝国時代の文献が保管されているが、先述のオスマン語読解のハードルもあり、それらはまだ限られた分野の専門家が見に来るだけの状況となっている。

ただ、そうした状況もこの20年程でようやく変わりつつあり、近年は、オスマン帝国時代の文献についても重視されるようになってきている。その変化について、以下で見ていく。

2. トルコに見る「文明の十字路」

(1) 版図を広げ、多様性を維持したオスマン帝国

ここで、オスマン帝国がどういうものであったかについて少し触れておく。

現在のトルコの性格を考えるうえでも重要な点であるが、オスマン帝国は、破竹の勢いで版図を広げ、ヨーロッパへ進出した。そのため、当時(14世紀後半~16世紀頃)のヨーロッパにとってオスマン帝国は、大変な脅威であった。

ただし、オスマン帝国は、イスラーム国家ではあったが、同じ一神教徒であるキリスト教徒やユダヤ教徒たちも包摂していた。彼らは、税金を納めなければならないという点では平等ではなかったものの、異教徒だからといって殺されたり、強制的に改宗させられたりすることはなかった。有名な話に「コーランか、剣か」といって、イスラームの帝国はヨーロッパに対して、イスラームを受け入れるか、それとも改宗を拒んで闘うかを迫ったというものがある。しかし、実際には「コーランか、剣か、税金を払うか」という3つ目の選択肢があった。オスマン帝国の支配地域では、現地の習慣が尊重され、キリスト教徒やユダヤ教徒は、ある程度自治を認められていたのである。

気を付けなければならないもう一つのポイントに、かつてはオスマン帝国のことを「オスマン・トルコ」と書いたが、現在はその表記をしなくなっているという点が挙げられる。なぜかというと、オスマン帝国は、トルコ系の人々のみから成る国家ではなかったからである。オスマン帝国の君主であるスルタンも、その生母の多くは、奴隷として宮廷のハレムに連れてこられたヨーロッパ人であった。また、主要な大臣にも、征服先のヨーロッパのキリスト教徒やユダヤ教徒たちが改宗の後に登用されていた[8]。イスラームには民族主義という考え方がなく、オスマン帝国では、人種・民族は政治的な意味を持たなかったのである。

(2)トルコ共和国の誕生

一方、1923年に成立したトルコ共和国は、トルコ民族による国民国家化を推し進めた。オスマン帝国の滅亡により、西洋近代国家、すなわち領域・主権・国民を持つ国家に生まれ変わることの必要性が痛感され、多様性を維持していたオスマン帝国から、ある意味非常に狭いトルコ民族の国という形で、現在の国が作られたのである。当然のことながら、この地域には、アラブ人、クルド人、アルメニア人など様々な民族が国と関係なく暮らしていた。そこにトルコ民族の国民国家を作ったため、クルド問題をはじめとする民族問題の火種を抱え込むことになった。

さらに、フランス由来の世俗主義[9]を原則として掲げ、イスラームを公の場から排除した。建国当初は国教をイスラームと定めていたが、それも廃止され、現行の憲法第2条では、トルコは世俗主義の国家であるということが規定されている[10]

トルコは、西洋近代国家をひたすら模倣しようとしたということである。

(3)トルコ共和国の変化

ところが、イスラームは、国民の間から消えなかった。厳格な世俗主義を原則としてきたものの、公の場からイスラームを排除しないことを望む国民の声が非常に強くなり、1970年代以降、イスラーム色の強い政党が台頭してくることになった。

そして2002年、現在の公正・発展党(AKP)政権が発足し、イスラーム主義が政治の表舞台に立つこととなった。軍は、何度か彼らを排斥しようとしたものの失敗に終わり、現在は、シビリアン・コントロールに服している。

先述のとおり、以後、オスマン帝国時代の文献・史資料を重視する傾向が強まっている。この変化は、イスラーム色の強い政権の発足と関係している。

ただし、イスラーム教徒でない人が居づらくなっているかというと、そのようなことはない。例えば、現在も飲酒は禁じられておらず、トルコのビールやワインの質は、むしろこの政権下で良くなり、種類も増えている[11]

その意味では、かつてのオスマン帝国に似ている。イスラームの国というと、お祈りに行けとか、酒を飲んではいけないといった命令があると思われがちである。しかし、オスマン帝国は違った。ある一角には酒飲みの人々がいて、かたや宗教的に保守的な人々のいる地区もあった。

これは現在も同様であり、華やかなヨーロッパのブティックが並んでいる地区もあれば、モスクと宗教関係の書店が中心の地区もある。本との関係でいえば、どの地区の書店に行くかによって、揃えてある書籍の質が違う。世俗的な人が多い地区の書店には、社会問題を取り上げた小説や、労働運動・学生運動についての文献などが多い。かたや、イスタンブール旧市街のファーティヒ(Fatih)区にあるモスクが集中している地区の書店では、イスラーム関係の文献が中心である。その両方を兼ね備え、様々な資料を取り揃えているのが、イスタンブール大学の正門の周りにある古書店街である。そういうところで話を聞くと、探している資料がどこにあるかを教えてくれる。現在は、インターネットでもある程度文献の検索が可能になっているが、トルコでは、こうした書店との付き合いの中で探していくという要素もいまだに大きい[12]

(4)トルコに見る「文明の十字路」と、ヨーロッパ側からのトルコのイメージ

以上説明してきたとおり、トルコは、近代西洋文明とイスラーム文明の双方をこれからは特に受容・継承していくことになるだろう。

しかしながら、ヨーロッパ側のトルコのイメージというのは、オスマン帝国時代に形成された、キリスト教の敵としての軍と野蛮性のイメージから動いておらず、現代の政治を見ると、特にフランスのトルコに対する敵意は激しいものがある。

2020年7月、トルコの世界遺産「アヤソフィア」が博物館からモスクに転用されたが、そのことについて、トルコはフランスはじめ世界から非難された[13]。多くの欧米諸国や日本のメディアが、イスラームのモスクに転用したことを否定的に論じたのである。しかし、トルコ側としては、オスマン帝国時代からモスクであったアヤソフィアを博物館に転用した1934年の閣議決定が2020年7月の最高行政裁判所の判決で無効と判断されたことに基づき、元の用途であるモスクに戻したのであって、非難には該当しないという認識であった。それにも関わらず、これだけ世界から批判されたことを考えると、トルコがかつてのオスマン帝国を基盤に据えて新しい国にしていくと公言することが、いかに反感を買うかをよく表していると思われる。

〇主な質疑応答

Q. 公正・発展党(AKP)政権下、出版業界にどのような変化が起きたか。

A. 出版業界の幅が広がり、宗教関係の出版物が明らかに増えた。また、国がバックアップし始め、オスマン帝国時代の資料を現代トルコ語に訳して出版するということも、少しずつだが進むようになってきた。このことは、非常にポジティブに受け止められている。現政権になる前の言論統制と比べると、現在の方が自由であるといえるだろう。

クルド問題に関しても、そもそもクルド人という言葉自体が長年タブーのようなものであった[14]が、現在はタブーではなくなり、クルド問題を扱う本やクルド語で書かれた本も出版されている。(ただし、クルド武装組織「クルディスタン労働者党(PKK)」のプロパガンダのための出版物については、対テロ法(法令第3713号)[15]で厳しく規制される。)

今、むしろトルコに関する文献で注意しなければならないのは、ヨーロッパ側から出てくる文献に、トルコに対し否定的なものが多いということである。2015年のヨーロッパ難民危機を経て、ヨーロッパから見たトルコの評判はさらに悪くなっており、政治的なものから文学作品に至るまで、とりあえずトルコを悪者にしておくということがトレンドになってしまっている。

Q. 当館が重点的に収集している社会科学分野に強い現地の出版社はあるか。

A. 出版社は、今はインターネット上でいくらでも見つかる。しかし、ジャンルあるいは立場によって分極化していて、総合出版社のようなものがまだあまりない。そのため、どういうものを出版しているか、小規模の出版社を含め地道に調べていく必要がある。

Q. 関西館のトルコ語資料の収集に関して、どのようなことを期待するか。

A. トルコ紙Hürriyet(【Y782-SN-2】及び【Y782-SN-4】。図3~4。)[16]を紙の状態で50年分所蔵しているのは非常に評価できる。古い主義と言われるかもしれないが、デジタル化されたものを画面上で見てそこから得るものと、紙をめくって得るものは違う。新聞や雑誌の場合には典型的に言えることで、目的の記事の横に掲載されている広告なども、歴史として重要な意味を持つ。特に冷戦後、かつて存在した秩序が世界的に成り立たなくなり、宗教を軸にした衝突まで起きてしまっていて、我々が文献を探していく作業の中でも、雑誌・新聞を眺めるなどして、求めている情報とは直接関係のない通俗的なものにも触れないと、そのときどういう社会・時代だったのかを思い出せなくなっている。そのため、研究の際にピンポイントに調べてしまうと、面としての広がりさえ得られなくなってしまう。そのことが、書物を集めるということにも直接的・間接的に影響してきていると思われる。

図3 アジア情報室開架のトルコ語新聞(Hürriyet(上段)・Milliyet(下段))[17]
アジア情報室開架のトルコ語新聞の画像
図4 アジア情報室閉架の製本済トルコ語新聞(例:Hürriyet)[18]
アジア情報室閉架の製本済トルコ語新聞の画像
Q. 現代の研究ではインターネット上の情報を利用することが多い一方、面としての広がりを持つ紙の資料の重要性もあるとのことだが、図書館としてはどういうものを集めれば現代の研究に役立つものになるか。

A. 少なくともオフィシャルな情報について、どの情報にどうアクセスできるかということの手引きというのは、これからの図書館の役割のひとつではないか。その道筋は、昔であれば、図書館、本屋、古書店をどう辿っていくかというものであったが、今はかなりデジタル化されている。その場合でも、一種の道筋を示していただけるとよいのではないか。

Q.トルコの一般の人々の識字率や読書事情について。

A. トルコの識字率は、30年前は8割ほどしかなかったが、現在は9割以上にまで上昇している[19]。しかし、一般の人々には本を読む習慣がまだあまりない。その分、学術や本を読むことに対しては、人々から明確な敬意が払われる。例えば、政治家が大臣等になると、これだけ本を読む人だということが新聞に掲載される。

Q. トルコにおける日本研究について。

A. 日本との懸け橋になっている現地の研究者が高齢になってきているが、彼らの役割を継承する人はあまり出てきていないようである。

また、アンカラ大学の言語・歴史・地理学部には、中国、韓国等の言語・文学関連の学科と並んで「日本語日本文学科」が設置されている。ただし、資料の寄贈等の面で中国や韓国からの猛烈な攻勢があり、日本はそれに追い付いていない。日本関連への関心は、漫画に特化している。

Q. 当館のトルコ語蔵書資料の印象について。

A. 雑誌は、現政権ができてから、様々な分野のものが出版されている。そういうものが、今見たところ見当たらない。例えば近年、様々なイスラーム関係の雑誌が出てきている。イスラーム寄りのものとそうでないもの、そういった偏向性について、トルコに限らずエジプトなどでもいえることだが、資料収集の際に目利きできなければならないだろう。

全体的には、体系性はあまり見られないが、いろいろな資料があるという印象である。探している資料がある場合、所蔵を確認してみる価値はありそうである。

図5 アジア情報室開架のトルコ語雑誌
アジア情報室開架のトルコ語雑誌の画像
図6 アジア情報室閉架のトルコ語図書
アジア情報室閉架のトルコ語図書の画像

(ないとう まさのり)


[1] 本稿では詳述しないが、オスマン語と現代トルコ語は、文字だけでなく語彙等の面でも違いがある。

[2] 英語式のアルファベットと異なる現代トルコ語のアルファベットには、Ç、Ğ、I(小文字の場合も点が付かないıとなる。)、İ、Ö、Ş、Üがある。

[3] 永田雄三「オスマン帝国」日本イスラム協会ほか監修『新イスラム事典』平凡社, 2002, p.154.

[4] アタテュルクは、1934年にトルコ大国民議会から贈られた名で、「父なるトルコ人」を意味する。

[5] イスラームの原則に立脚する国家。国家や統治に関するイスラームの原則を何と考えるかで、その内容は様々に解釈される。(小杉泰「イスラーム国家」大塚和夫ほか編『岩波イスラーム辞典』岩波書店, 2002, p.136.)

[6] アタテュルクは、イスラームを後進性の象徴とみなし、世俗主義を国家の方針の一つに掲げた。この方針のもと、信仰は個人の内面の問題であることが強調され、宗教が社会生活の可視的部分からできる限り排除されることが目指された。(新井政美編著『イスラムと近代化―共和国トルコの苦闘―』講談社, 2013, pp.20-39.)後述の2(2)も参照。

[7] 大統領府オスマン文書館(Türkiye Cumhuriyeti Cumhurbaşkanlığı Devlet Arşivleri Başkanlığı, Osmanlı Arşivi。(旧・首相府オスマン文書館))。その概要については、髙松洋一「歴史家とアーキビストの対話(第5回)アーカイブズを訪ねる―トルコ・イスタンブル・(旧)首相府オスマン文書館(大統領府オスマン文書館)―」『歴史学研究』No.980, 2019.2, pp.38-42を参照。

[8] オスマン帝国では、1856年の改革勅令まで、非ムスリムは、イスラームに改宗することなく、官僚や軍人としての主要な職につくことができなかった。(上野雅由樹「非ムスリムのオスマン官界への参入―ハコプ・グルジギアン(1806-65)の事例から―」鈴木董編『オスマン帝国史の諸相』東京大学東洋文化研究所, 2012, p.377.)

[9] 世俗主義は、トルコ語で「ライクリッキ(laiklik)」という。これは、フランスの「ライシテ(laïcité)」に由来する。

[10] 共和制樹立を決定した1921年憲法改正法(基本組織法の条項の追加及び改正に関する法律(1923年制定))、及びその後制定された1924年憲法(基本組織法(1924年制定))では、国教をイスラーム教と規定していた。しかし、1928年の憲法改正で当該文言が削除され、さらに、1937年の憲法改正で世俗主義の国家であることが規定された。以降、世俗主義は、トルコの憲法に明文化された原則であり続けている。

[11] なお、公正・発展党(AKP)政権下、夜間の酒類販売禁止や酒税の引上げといった、酒類の規制強化に関する動きがあることも指摘されている。(「街角スケッチ イスタンブールから 相次ぐ酒税上げ 駐在員もため息」『日本経済新聞』2014.4.8, 夕刊等。)

[12] トルコの書店事情について、書店での人間関係の重要性を含め紹介している資料に、三沢伸生「トルコの書籍・書店事情(2009 年度)」『イスラーム世界研究』3巻2号, 2010.3, pp.509-533, 京都大学学術情報リポジトリ(KURENAI) <https://doi.org/10.14989/123277>がある。

[13] アヤソフィアのモスク転用問題について詳しくは、内藤正典「アヤソフィアのモスク転用問題とエルドアン政権の戦略」『中東協力センターニュース』2020.9, pp.23-30, 中東協力センターウェブサイト<https://www.jccme.or.jp/11/pdf/2020-09/josei02.pdf>を参照。

[14] クルド人は、「山のトルコ人」という差別的な呼び方をされ、クルド人という呼称すら認められていなかった。さらに、クルド語は、トルコ語とは全く異なる言語だったにもかかわらず、トルコ語の方言の一つとされた。(内藤正典『イスラームからヨーロッパをみる―社会の深層で何が起きているのか―』岩波新書, 2020, pp.150-151.)

[15] Terörle mücadele Kanunu: Kanun Numarası 3713. Mevzuat Bilgi Sistemi website <https://www.mevzuat.gov.tr/mevzuat?MevzuatNo=3713&MevzuatTur=1&MevzuatTertip=5>

[16] トルコの代表的な日刊紙。【 】内は国立国会図書館請求記号。欠号も多いが、関西館で1971年2月25日号から所蔵している。2004~2014年分は、ヨーロッパ版(【Y782-SN-4】)のみ所蔵。

[17] 新着号は、アジア情報室に開架している。

[18] 一定期間経過後、製本し書庫に排架している。

[19] トルコの15歳以上の識字率は、1990年に約79.2%であったが、2017年には約96.2%に上昇している。(出典)UNESCO Institute for Statistics, UIS.Stat database <http://data.uis.unesco.org/Index.aspx>

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