一世を風靡した「夢二式」

挿絵
竹久夢二

憂いを帯びた表情、うりざね顔に細長くしなやかな肢体、大きな眼、竹久夢二の描く女性です。「夢二式美人」と呼ばれたこの女性像は、明治末から大正にかけて雑誌の挿絵などを通じて一世を風靡しました。夢二の挿絵は、明治43(1910)年までに『中学世界』『読売新聞』『平民新聞』『女学世界』『婦人世界』『女鑑』『少女世界』『少女の友』『日本の少女』『ハガキ文学』『文章世界』『ホトトギス』『太陽』『東京パック』等、凡そ45種の新聞・雑誌に掲載され多くの人が目にしました。

「夢二式」という言葉が使用されたのは、明治40(1907)年5月28日付『読売新聞』編集日誌の記事からです。では実際に「夢二式美人」とはどういう女性だったのでしょうか。

それは単に眼が大きな女性ではありません。
和服を着こなしながら、西洋の影響を受ける女性を表現する言葉でもありました。大きな眼だけでなく、ほっそりとした身体つき、髪型や化粧だけでなく身のこなしも含まれています。
ここでは特に眼に注目して紹介してみましょう。
「夢二式美人」の初期の挿絵ともいえる「生れぬ前」(『少女の友』1(5) 1908.6所収)【Z32-412】では、日傘をさし、和服を着た女性が首にショールをしています。一緒にいる子どもたちは洋装で、女性も子どもも眼はパチリと描かれています。
眼の大きな美人が強調されたのは、時代における美人観の変化のためでした。二重瞼で大きな瞳の女性を美人とする価値観は、新しい時代の感性だったのです。

「生れぬ前」「生れぬ前」(『少女の友』1(5) 1908.6所収)【Z32-412】)

明治に入っても、錦絵に描かれた細くややつり上がった狐目を美人画の代表とする価値観は続いていました。逆に大きな眼は下品とされていたのです。
しかし、維新後の西洋化の流れから、西洋の影響を徐々に受けていく過程で、切れ長の一重瞼から睫毛の長い張のある眼が好まれるようになりました。

大きな瞳の女性が好まれるようになった一方で、うりざね顔の切れ長の目の女性の人気も続き、美人画の世界では根強く残っていました。

明治以後の美人の顔の好みはさまざまですが、絵画の世界だけでなく、芸妓の顔写真や一般女性を対象とした美人コンテストの中でも、近代的な二重瞼の美人が登場してきます。夢二の描く絵と時代の流れが「夢二式美人」の流行を作り出しました。

夢二の美人画はもてはやされましたが、それを後押ししたのは、夢二がデザインした小物を商う「港屋」でした。日本橋にできた店で販売される夢二グッズは、これを身に着けることで一挙に広まりました。「夢二式」の言葉通り、夢二の意匠による帯、半襟、手染めの浴衣、手ぬぐい等の趣向品から夢二人形まで市販され、「夢二式」が風靡したのです。

しかしその「夢二式」も大正3(1914)年から5年を最盛期として、大正後期にはブームが収束します。大正15年のスキャンダル事件をきっかけに、ブームは終焉を迎えます。そして夢二の亡くなる昭和9(1934)年には、「夢二式」は過去のものになっていました。

参考文献

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