純文学の翻訳の始まり

このページでは、企画展示「知識を世界に求めて―明治維新前後の翻訳事情―」の「第4章 翻訳文学の歩み」「第3節 純文学の翻訳の始まり」から資料を紹介します。

解説本文

明治10年代には、自由民権思想の普及とともに大衆の社会・政治への関心が高まりました。読者層が漢文の素養のある知識人以外にも広がり始め、新たな読み物を求める声が大きくなり、いわゆる「政治小説」がブームとなりました。

そうした動きの先駆けとなったのが、イギリスの政治家ブルワー・リットンの著書の翻訳である『花柳春話』です。この作品は、恋愛を通じて主人公の成長を描いた一種の「教養小説」であり、我が国最初の純文学に属する翻訳作品と言われます。原作から翻案されてはいるものの、我が国の翻訳文学史上、注目に値します。

『花柳春話』以降、井上勤は『ロビンソン・クルーソー』やジュール・ヴェルヌのSF小説の翻訳を次々と生み出し、読者はまだ見ぬ異国の物語や冒険譚に夢中になりました。また、この頃、読者が受け入れやすいよう、設定や舞台を日本に置き換えて翻訳されたシェイクスピアやウォルター・スコットの英文学作品が多く出版されました。こうして、我が国の翻訳文学は一層充実していくこととなります。

『花柳春話』と『通俗花柳春話』の文体比較

ここでは、漢文訓読体でカタカナを用いて書かれた『花柳春話』と、女性や子どもも理解しやすいよう、七五調で総振り仮名を用いて改訳された『通俗花柳春話』との文体の違いをご覧ください。

花柳春話

天気晴朗トシテ樹木鬱葱、薫風嫋々トシテ菜花黄波ヲ揚グ時恰モ五月ノ中旬ニシテ夏猶ホ未ダ暑カラズマルツラバース単騎ニ雅遊ヲ試ント欲シ野径ニ逍遙シ夏山ノ風景ヲ観望ス會ゝ遙カニ一群ノ騎隊砂ヲ蹴ツテ来ルヲ認ム

通俗花柳春話

久方(ひさかた)天津空(あまつそら)ねは晴亘(はれわた)樹木(きゞ)弱葉(わかば)陰青(かげあお)野末(のずえ)(おく)南風(そよかぜ)菜花(なのはな)(うご)其景(そのさま)黄金(こがね)(なみ)(あぐ)るが(ごと)(ころ)しも五月(さつき)中旬(なかば)にて(なつ)(なほ)(いま)(あつ)からねばマルツラバースは児馬(こま)打騎(うちのり)四方(あたり)名所旧跡(めいしょきゅうせき)(さぐ)らんものと唯単騎(たゞひとり)児馬(こま)歩足(あゆみ)(まか)せつゝ野徑(のみち)景色(けしき)長視(ながめ)ながら家路(いへぢ)一里余(りあまり)ほど(はなれ)打柄(をりから)(むかふ)より一群(ひとむれ)騎馬(こま)(すな)蹴立(けた)此方(こなた)(さし)(きた)るを()

原文

It was one soft May-day that he found himself on such an expedition, slowly riding through one of the green lanes of―shire. His cloak and his saddle-bags comprised all his baggage, and the world was before him "where to choose his place of rest." The lane wound at length into the main road, and just as he came upon it he fell in with a gay party of equestrians.

『哲烈禍福譚』と『鉄烈奇談』の翻訳態度

『哲烈禍福譚』と『鉄烈奇談』の原著はともに、17世紀フランスの作家フェヌロンのLes aventures de Télémaque です。『八十日間世界一周』と並んで、我が国における最も初期のフランス文学の翻訳小説になります。原著を同じくする2冊ですが、その「緒言」からうかがえる訳者のスタンスには明確な違いがあります。

日本風に翻案することが主流の時期にあって、『哲烈禍福譚』は七五調の文体であり、人名や地名も「日本化」されています。その緒言では、読者が飽きずに読めることを優先したと述べています。これに対し、『鉄烈奇談』はその緒言で、原文に従って作者の文章を尊重するという翻訳態度を宣言しています。このような原文尊重の翻訳態度は、後に紹介する『繋思談』にもつながっていきます。

素より学芸正則の書に非ざれば、語詞を採ず、専其意を意として本文を解し、預看官の倦まんことを防ぎ― 『哲烈禍福譚』緒言
原文に従て譯し去り務めて作者意匠の密なるを害せさらんとすれは譯者も亦刪除に失せんよりは寧しろ重複に失せんとするの思ひあり―『鉄烈奇談』

八十日間世界一周 : 新説

我が国初のフランス小説の翻訳であり、冒険小説ブームの先駆けとなった。原著は、イギリス人の主人公フォッグが従者パスパルトゥーとともに、80日間以内に世界を一周するという賭けに挑戦する話。本書は、当時としては大幅な加筆や省略がほとんどない原文に忠実な逐語訳であり、翻訳文学史上特筆すべき存在とされる。好評を博した前編から2年後に刊行された後編では、振り仮名の振られる数が大きく増えており、より多くの読者が理解しやすいようにとの配慮が感じられる。

井上勤の翻訳と冒険小説ブーム

井上勤(1850-1928)は、明治10年代にジュール・ヴェルヌを中心とした数多くの西洋の文学作品を我が国に紹介した翻訳家です。特に『ロビンソン・クルーソー』は井上によって初めて英語版から全訳され、これをきっかけに我が国の読者に広く受け入れられるようになりました。

主人公が未知の世界を旅するこうした小説は、文明開化によって西洋という世界に関心を持ち始めた多くの人々を魅了し、冒険小説ブームをもたらしました。『海底二万マイル』や『八十日間世界一周』などのヴェルヌの作品に描かれる、近代の科学技術や金銭によって物事を解決する合理主義的な価値観は、明治の人々に驚きをもって迎えられました。

未知なる世界の技術や文明の魅力を伝えた挿絵にもご注目ください。

歌舞伎になったシェイクスピア

明治18(1885)年、シェイクスピア作The Merchant of Venice の宇田川文海(1848-1930)による翻訳作品である『何桜彼桜銭世中』が大阪朝日新聞に連載されました。これは、原作の内容を歌舞伎の台本風に翻案したものです。舞台がヴェニスから江戸に移され、人名もアントニオは「紀伊国屋伝次郎」、シャイロックは「桝谷五兵衛」のように日本風に作り変えられており、多くの人になじみやすい作品になっています。

本作は発表とほぼ同時に、歌舞伎作家の勝諺蔵(1844-1902)が脚本を手掛け、大阪戎座にて上演されました。我が国における最初のシェイクスピア劇の上演であり、西洋演劇の移入に先駆的な役割を果たしました。単行本化された際に、文海はその「自序」で、「一回新紙に掲げて世の喝采を博し二回劇場に演して世の喝采を博したり」と上演の成功を誇っています。大衆に寄り添い我が国の伝統的な手法によって翻案された本作は、書物から歌舞伎へと形を変えて、当時の人々に受け入れられました。

坪内逍遥の翻訳

坪内逍遥(1859-1935)は、東京大学文学部で外国人講師から英文学を学び、在学中に当時のスコット作品ブームの先駆けとなる『春風情話』の翻訳を手がけます。

明治17(1884)年にはシェイクスピアのJulius Caesarの翻訳『自由太刀余波鋭鋒』を発表しました。原題にはない「自由」を冠したタイトルには、自由民権運動をはじめとする当時の政治への関心の高さがうかがえます。逍遥は、読者がなじみやすいよう、七五調の院本体(浄瑠璃調の文体)を用いながらも、宇田川文海による徹底的に日本化した翻案とは異なり、原文に忠実な翻訳を目指したとされます。

シェイクスピア劇の翻訳に以後も取り組み続けた逍遥は、我が国で最初の全集の完訳を果たします。今日のシェイクスピア翻訳の基礎になるものであり、逍遥が我が国でのシェイクスピアの受容において果たした役割はとても大きいと言えます。

今此國の人の為めにわざと院本體に譯せしかば、原本と比べ見みば或は不都合の廉多かるべし...
原本の意は成るべく失しなはざらんを力むるといへども...
―『自由太刀余波鋭鋒』訳者附言より

関連する人物

電子展示会「近代日本人の肖像」にリンクします。


実際の展示資料

展示ケースの画像 展示ケースの画像 展示ケースの画像 展示ケースの画像 展示ケースの画像

157. 花柳春話 : 欧洲奇事

ロウド・リトン 著・織田純一郎 訳 坂上半七 明治 11(1878)~12(1879)年【特 13-594】

158. 通俗花柳春話

ロード・リトン 著・織田純一郎 訳 坂上半七 明治 16(1883)~17(1884)年【特 13-623】

159. Ernest Maltravers

Edward Bulwer Lytton Routledge 1897【111-92】

160. 八十日間世界一周 : 新説

シェル・ウエルヌ 著・川島忠之助 訳 川島忠之助 明治 13(1880)年【26-212】

161. Le tour du monde en quatre-vingts jours

Jules Verne Hetzel [187-?]【78-37】

162. 哲烈禍福譚 : 欧洲小説

フェネロン 著・宮島春松 訳 太盛堂 明治 12(1879)~13(1880)年【特 40-617】

163. 鉄烈奇談 : 経世指針

フェネロン 著・伊沢信三郎 訳 白梅書屋 明治16(1883)年【特 22-586】

164. Les aventures de Télémaque

Fénelon E. Flammarion [19--?]【KR156-13】

165. 九十七時二十分間月世界旅行

ジュールス・ヴェルネ 著・井上勤 訳 黒瀬勉二ほか 明治 13(1880)~14(1881)年【31-160】

166. 魯敏孫漂流記 : 絶世奇談

ヅーフヲー 著・井上勤 訳 博聞社 明治 16(1883)年【特 70-521】

167. 亜非利加内地三十五日間空中旅行

ジュールス・ベルネ 著・井上勤 訳・渡辺義方 校 絵入自由出版社 明治 16(1883)~17(1884)年【特 50-964】

168. 海底紀行 : 六万英里

ヂュールス・ヴェルネー 著・井上勤 訳 博聞社 明治 17(1884)年【34-108】

169. Twenty thousand leagues under the seas

Jules Verne Sampson Low, Marston, Searle & Rivington 1885【35-328】

170. 全世界一大奇書 : 原名・アラビヤンナイト

井上勤 訳述 報告堂 明治 18(1885)年【33-16】

171. 人肉質入裁判 : 西洋珍説

シェキスピヤー 著・井上勤 訳 今古堂 明治 16(1883)年【31-281】

172. 何桜彼桜銭世中 : 花莚七枚

雨の家狸遊 編・宇田川文海 閲 和田文宝堂 明治 19(1886)年【特 10-921】

173. 人肉質入裁判法庭之場講義録

シエクスピヤ 著・磯辺弥一郎 述 国民英学会 明治 24(1891)年【26-419(洋)】

174. ゼ・マーチャント・オブ・ヴェニス

シェークスピヤ 著・土肥春曙 訳述 服部書店 明治 36(1903)年【97-17】

175. ヴェニスの商人

シェークスピア 著・戸沢姑射 浅野和三郎 訳 『沙翁全集』第3巻 大日本図書 明治 38(1905)~42(1909)年【78-69】

176. 自由太刀余波鋭鋒 : 該撒奇談

沙士比阿著・坪内逍遥 訳 東洋館 明治 17(1884)年【特 13-579】

177. 春風情話

ソル・ヲルタル・スコット 原著・橘顕三 訳述 中島精一 明治 13(1880)年【特 13-668】

178. 春窓綺話 : 泰西活劇

服部誠一(撫松) 編訳 坂上半七 明治 17(1884)年【特 13-576】


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