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第112回常設展示 外国人の明治日本紀行

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第112回常設展示 外国人の明治日本紀行

キーワード:明治;紀行;外国人;文化;風俗  カテゴリ:歴史・地理・哲学・宗教 件名(NDLSH):日本--紀行  分類(NDC):291.09

 

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平成13年1月29日(月)~3月23日(金)

 

当館では積極的に日本関係の洋書を集めていることをみなさんはご存知でしょうか?その分野は多種多様にわたりますが、今回は「紀行文」に焦点を当ててみました。
客観的な記述が多い紀行とはいえ、外国人が書いた書物…そういうとおそらくよくある西洋的価値観から見た日本論を想像されるかもしれません。しかし、ここに挙げた資料はそういうものとは少し趣を異にします。 西洋人としての視点を極力排除し、日本人あるいは傍観者としての視点で、記録を残そうとした著者の姿勢が感じられるものばかりです。そのため、当時のありのままの日本文化・風俗を知ることができるという点で非常に貴重な資料となっています。
当時の日本が目に浮かんでくるような文章と美しい挿絵や写真に触れて、現代に生きる私たちは何を感じるでしょうか?

著者および展示資料の紹介

(資料の配列は、原書の初版本の刊行年順。また【 】内は、当館請求記号。)

1)ジョルジュ・イレェル・ブスケ Georges Hilaire Bousquet
フランスの 弁護士・法律家。1843年生まれ。1872年、日本政府の法律顧問役を勤めるために来日。3年の雇用期間を1年延ばし、その間法学教育に従事し、立法事業の参画などを行った。ブスケの生涯についてわかっていることはごくわずかであり、性格についても同様に詳しくはわかっていないが、本書の記述からかなり冷静で、自分の主観よりも客観を重要視する傾向があったことがわかる。
"Le Japon : de nos jours et les echelles de l'Extreme Orient" Paris : Librairie Hachette, 1877.
【915.2-B777j】
1877年の初版本2巻を所蔵。本書は明治維新直後に滞日したブスケの、日本に関する資料である。この時期までに日本について書かれた欧文の書物はかなり多数に上るが、客観的というよりは、エネルギッシュにそして新鮮な目で、多少主観的に捉えている点で他と異なっている。誤りや思い違いも多いが、挿絵がないにもかかわらず、詳細な記述によってその状況が浮かんでくるほど彼の観察眼は鋭い。また比較文化論としての資料価値もある。当時の世界の風潮と同様に西欧文化を最高峰とみなし、それに達しない文化については遅れていると考えていることが本書の節々に見られる。それにもかかわらず、日本文化に対して短所とともに長所も指摘し、比較的公正な評価をくだしている点は評価に値すると言える。
邦訳…野田良之 久野桂一郎訳「日本見聞記1・2」みすず書房 1977
【GB648-25】
2)E. W. クラーク Edward Warren Clark (1849-1907)
いわゆるお雇い外国人として、静岡学問所および東京開成学校で教える。米国ニューハンプシャー州生まれ。大学で数名の日本人留学生に会い、日本に関心を持つ。先に福井へ招聘されていた同窓生のW. E.グリフィスのもとへ、勝海舟から静岡の学校でアメリカ人教師が欲しいという手紙が届き、グリフィスはクラークを推薦。1871年に来日、静岡県との雇用契約交渉に際し、キリスト教布教禁止の条項を、勝海舟や岩倉具視の尽力により削除させる。静岡学問所は1868年徳川家が開設、洋学を中心とする当時最高水準の教育機関であった。クラークは英語、物理、化学などを教え、自宅で聖書の授業も行った。1872年学制発布により学問所が廃止されると、翌年上京、東京開成学校の化学の教師となった。帰国後1878 年「日本滞在記」を出版。1894年中国旅行の途中東京に立ち寄り、勝海舟らに会い、1904年には彼の伝記を出版している。
"Life and adventure in Japan" New York : American Tract Society, 1878.
【A-70】
1878年の初版本を所蔵。日本滞在の約3年間の記録で、静岡と東京での生活や、学問所での教育についての記述を中心に、宮中で自ら行った、幻燈の映写会の様子なども描かれている。クラークは写真撮影の技術にすぐれており、オリジナルの写真からおこした挿絵も豊富である。  紀行に関しては、横浜から静岡へ行く途中に立ち寄った鎌倉、江ノ島、箱根の旅と、かねてから切望していた富士登山、京都旅行の様子が書かれている。また、日本人の数多くの美質を認めた上で、日本での布教の必要性を説く、熱心なキリスト教徒でもあった。
邦訳…飯田宏訳「日本滞在記」講談社 1967
【291.099-cC59n-I】
3)エミール・ギメ Emile Guimet (1836−1918)
フランスの実業家。科学者・実業家の父と画家の娘である母との間に生まれる。両親双方の精神を受け継ぎ、若い頃から様々な事業に関心を示しただけでなく、芸術面での技術も身に付けていた。また古代遺跡や信仰に心を引かれ、エジプトの古美術品やオリエントの豪華な織物などを自宅に保管した。そのうち、集めるだけでは満足できず、エジプト学の書物を読み学んでいくうちに、哲学体系の創始者や宗教の開祖が各時代、地方で社会問題の解決を提案していたのだと考えるようになる。そこでじかに住民に接する必要があると考え、世界一周の旅を計画した。この時期、日本では大きな宗教改革を企てていた時期であり、ギメにとっては好都合であった。滞日期間はわずか3か月であったが、日本の宗教についての資料として300以上の宗教画、600以上の神像そして1,000以上の書物を手に入れた。
ギメは以前から集めていた美術品、書物をすべて一人で享受することに甘んじず、多くの人が利用できるように博物館と図書館を設立した。その中の1つ、パリに設立された「ギメ博物館」は、彼の死後国立となり、今日ではアジアの研究所としての役割も果たしている。
"Promenades japonaises : dessins d'apres nature" Paris : G. Charpentier, 1878.
【GB648-4】
"Promenades japonaises : Tokio-Nikko" Paris : G. Charpentier, 1880.
【GB648-5】
1878年および1880年の初版本2巻を所蔵。1巻目は横浜の見聞記や鎌倉、江ノ島の紀行、2巻目には東京から日光の紀行が収められている。随所にフェリックス・レガメーの筆によるすばらしい挿絵があり、風俗史や演劇史にとって貴重な資料を提供している。滞日期間は決して長くはないが、日本と日本人を批判的な視点から見るのではなく、むしろ日本が好きであるという立場から、西欧化していくこの時代の日本を暖かい目で批評している。また日本の自然や芸術品の美しさに目を留める記述も多い。レガメーの絵とともに人物の記述も詳細であり、当時の日本と日本人の様子を知るのに貴重な資料となっている。
邦訳…青木啓輔訳「1876ボンジュールかながわ」有隣堂 1977
【GC74-18】
青木啓輔訳「ギメ 東京日光散策 レガメ 日本素描紀行」雄松堂出版 1983
【GB648-56】
参考資料…尾本圭子 フランシス・マクワン著「日本の開国」創元社 1996
【GB415-G3】
4)イザベラ・バード Isabella Lucy Bird(1831−1904)
英国の旅行家。ヨークシャーの牧師の家に生まれる。生来病弱で脊椎の病気があり、若いときから転地療養のため、アメリカ、オーストラリア、ハワイ諸島などを旅行し、旅行記を出版。本格的な大旅行は中年になってからで、日本を初めて訪れたのも1878年、47歳のときである。その後「ロッキー山脈踏破行」、「日本奥地紀行」、「マレー半島紀行」、「ペルシャ・クルジスタン旅行記」を次々と出版。62歳のとき、ヴィクトリア女王に謁見、女性としては前例のない英国地理学会特別会員に選ばれる。63歳から65歳にかけて朝鮮および中国を訪れ、「朝鮮とその隣国」、「揚子江とその奥地」を出版、さらにモロッコ旅行ののち、72歳で病没した。
彼女の生涯はちょうどヴィクトリア朝時代と重なっており、女性に一定の役割しか与えられなかった社会の窮屈な雰囲気のなかで、「女性ができることをやる」という信念を持ち、それを実行する自立した女性であった。
"Unbeaten tracks in Japan : an account of travels in the interior, including visits to the aborigines of Yezo and the shrines of Nikko and Ise" London : J. Murray, 1880.
【A-52】
1880年の初版本2巻を所蔵。1878年、バードは伊藤という英語の話せる18歳の日本人ガイドとふたりで、東北および北海道を目指して出発、東京から日光までは人力車、その先は馬で旅を続けた。ルートは会津盆地、新潟を経て米沢盆地、山形、新庄、横手、秋田、青森と進み、津軽海峡を渡って蝦夷へ。函館から室蘭を経て白老や平取のアイヌ部落を訪問、函館から船で横浜に戻るまでほぼ3か月の旅であった。そのあとの関西方面の旅行は1885年のいわゆる普及版では省略されており、邦訳もこれによっている。
時はまだ西南戦争の翌年で、まだ文明開化の及んでいない北日本を目的地に選んだのも、「ほんとうの日本を見たい」という願いからだった。東北の農村の貧しく不衛生な状態に心を痛め、外国人の女を一目見ようという好奇の目にうんざりしながらも、美しい自然や親切で純朴な人々とのふれあいに感動するバード。ちょうど梅雨期と重なったため、汚水でぬかるんだ道や蚊や蚤の襲撃、そして持病の脊椎の痛みと闘いながらの困難な旅であった。
その記述は彼女の言葉どおり、当時のありのままの日本の姿を伝えており、民俗学の見地からも貴重な資料となっている。
邦訳…高梨健吉訳「日本奥地紀行」平凡社 2000
【GB648−G14】
神成俊男訳「コタン探訪記」北海道出版企画センター 1977
【GC5-92】】
伝記…O.チェックランド著「イザベラ・バード 旅の生涯」日本経済評論社 1995
【GK417−E15】
参考資料…樺山紘一編「世界の旅行記101」新書館 1999
【GA39-G36】
5)アーサー・H・クロウ Arthur H. Crow
生没年不明。英国の商人で、会社を経営していたらしい。1882年英国王立地理学会の特別会員となる。著作は「日本内陸紀行」のみ。1881年6月1日横浜に到着し、9月18日函館を出港するまでの約3か月、日本を旅行して回った。経済的にも恵まれ、教養も深く、当時の日本で活躍していた外国人たちとも交流があった。
"Highways and byeways in Japan : the experiences of two pedestrian tourists" London : Sampson Low, Marston, Searle, and Rivington, 1883.
【A-49】
1883年の初版本を所蔵。横浜から船で神戸へ、神戸から鉄道で大阪、京都まで行き、そこから中山道(彦根、馬籠、下諏訪、高崎)を徒歩で日光までさかのぼり、東京へ人力車で戻る。それから横浜、江ノ島,箱根への旅や富士登山のあと、函館を通ってサンフランシスコへ向かった。客観的な記述が中心で、心理的、情緒的な描写は少なく、正確な記録という印象が強い。
邦訳…岡田章雄 武田万里子訳「日本内陸紀行」雄松堂 1984
【GB648—62】
6)ギュスターヴ・グダロー Gustave Goudareau
グダローについてはあまり詳しいことが現在のところわかっていない。様々な資料の断片から、1897年に横浜のフランス領事館事務代理になったことや、本書の序文や本文からフランスを出て30年になり、来日して15年、日本語を割合に自由に操ることができ、日本通であったことがうかがえる程度である。
"Excursions au Japon" Paris : Alcide Picard et Kaan, 1889.
【F-155】
1889年の初版本を所蔵。本書は当時フランス領事館代理だったグダローが、横浜から新潟、直江津、長野を経て再び横浜に戻ってくるまでの12日間の記録である。実務家らしく、冷徹かつ時にはシニカルに事実を淡々と述べる一方で、外国人であるがゆえに行く先々で受けた不当な扱いへの憤慨、あるいは反対に日本人と同様の扱いを受けたことについてなどをユーモア交じりに語っている。また随所にフランスと日本の制度や考え方の違いに触れており(動物虐待など)、当時の外国人の日本観を知る上でも貴重な1冊となっている。本書を執筆するにあたって、アーネスト・サトウのガイドを参考にしているのは当時としては当然のことであるが、それ以外にも自ら各所で統計・資料を入手して、後日この見聞記を書く時の参考にしている。  著者が序文の中で「日本人には珍しくなくても、外国人とって魅力のないものでもないだろう」と本書のことを述べているが、一世紀以上を経た今の日本人にも興味深く読める1冊であろう。
邦訳…井上裕子訳「仏蘭西人の駆けある記−横浜から上信越へ−」まほろば書房 1987
【GB648-E2】
7)バジル・ホール・チェンバレン Basil Hall Chamberlain(1850−1935)
イギリス海軍軍人の長男として生まれる。当初は銀行に勤めたが、健康を害し退職。その後健康回復のためにイタリアやギリシャ等を旅行し、さらに遠洋航海に出た。1873年に初来日を果たし、私雇外国人時代を経て英学教師となった。その後、帝国大学文科大学(東京大学文学部の前身)の教授として、近代日本語学の確立に貢献した。その一方で、日本研究に励み、その成果を「日本アジア協会誌」に発表している。「日本口語文典」や「英訳古事記」など、日本関係の著作物が多数ある。その他にもアイヌ研究や琉球研究に力を尽くしており、ラフカディオ・ハーンとの交友も良く知られている。後年、チェンバレンを日本を見下した西洋至上主義者と決め付けた著書や論文が、ハーン研究者から出されているが、彼の日本に対する愛や異文化に対する開かれた態度を物語る言葉の多くを、著作や資料から発見することができる。
"A handbook for travellers in Japan" London : J. Murray, 1891.
【915.2-C443h】
1891年の第3版を所蔵(初版は1881年)。外国人旅行者のために書かれた書物ではあるが、日本の歴史や地理、そして風俗習慣に至るまで要領よく解説されており、我々日本人の盲点となっているところをついた著作となっている。また本書はチェンバレンが自ら実際に日本全国を旅行した経験と観察を織り込んだもので、その正確な記述には定評があり、随所に日本地図が付されている点でも、とても読みやすいつくりとなっている。明治中期頃までは、山岳地帯についてのガイドブックは山岳信仰が障害となって存在していなかった。その中で本書は戸隠山、飯綱山、妙義山等、中部山岳地帯の記述に富み、注目に値する資料である。
邦訳…楠家重敏訳「チェンバレンの明治旅行案内—横浜・東京編」新人物往来社 1988
【GB648-E4】
伝記…太田雄三著「B・H・チェンバレン−日欧間の往復運動に生きた世界人」 リブロポート 1990
【GK421-E7】
8)パーシヴァル・ローエル Percival Lowell(1855−1916)
米国の天文学者で、日本研究家としても知られる。幼少より数学と天文学に関心をもつ。ハーバード大学卒業後、いわゆる「世界漫遊家」として各地を旅行。1876年日本滞在中、朝鮮国が米国に派遣する、特別外交使節団の外国人秘書官の任につき、京城にも滞在。1886年「朝鮮—朝の静けさの国」を出版。数回の来日で、計3年間ほど滞在。1888年日本人論として名高い「極東の魂」を出版する。1889年能登半島を旅行し、1891年「NOTO」を出版後、神道の研究を始める。チェンバレンやハーンとも交友があった。1894年の「オカルト・ジャパン」出版後は、アリゾナ州フラグスタッフにローエル天文台を創設、火星の研究に没頭し、運河の発見と火星人の存在を主張する。1916年冥王星の存在を予知するが、発見には至らず、61歳で死去した。
"Noto : an unexplored corner of Japan" Boston : Houghton, Mifflin, 1891.
【915.2-L916n】
1891年の初版本を所蔵。1889年日本地図を眺めているうちに、奇妙な形で突き出した半島に引きつけられたローエルは、見知らぬ土地への想いをつのらせ能登半島旅行を思いつく。5月、コック兼ボーイとして山田栄次郎という青年を同行して出発。上野—横川間および軽井沢—直江津間は、先年開通したばかりの鉄道を利用、急勾配で機関車の運行が不能な碓氷峠では、鉄道馬車に乗り遅れ徒歩で軽井沢駅へ向かった。日本海側へ出てからは、沿岸を西へ人力車で進み、越後の能生(のう)、越中の氷見、荒山峠を経て七尾港へ到着、漁村の女たちの重労働に心をくもらせている。蒸気船で穴水まで足をのばしたあと、小舟で七尾に戻り、富山、立山下温泉、善光寺、松本を通って塩尻へ。天竜川の川下りでは、天竜峡の眺めに感動して詩をつくっている。そして東海道へ出て、旅の美しい思い出をたたえたところでこの旅行記は終わっている。
漁村の宿で、女中の優美なものごしと声音に心を打たれたローエルが、はるばる当時の辺境の地に赴いたのも、文明開化の影響をまだ受けていない、純粋な日本の風景と日本人の姿を見たかったからかもしれない。
邦訳…宮崎正明訳「NOTO 能登・人に知られぬ日本の辺境」十月社 1991
【GC94-E26】
伝記…宮崎正明著「知られざるジャパノロジスト ローエルの生涯」丸善 1995
【GK463-E13】
9)エリザ・シドモア Eliza Ruhamah Scidmore(1856-1928)
米国のジャーナリスト・紀行作家。日米親善に尽くす。ワシントンで新聞記事を書いていたが、兄が横浜領事館に勤務していたこともあり、1884年来日。アラスカ、ジャワ、中国、インドに関する著書を次々と出版、東洋研究の第一人者となり、紀行作家としての地位を確立。日本についても1891年「日本での人力車旅行」、1893年「西回り極東への旅」を出版する。1897年以降、東洋会議の幹事を務め、1907年には日露戦争で捕虜となったロシア人の、松山収容所での人道的な扱いをテーマとする小説を発表。武士道に基づく文化と、桜を愛でる日本人の精神に深く魅せられ、新渡戸稲造と親交があった。1909年タフト大統領夫人に、ホワイトハウス前庭のポトマック河畔に日本の桜を植えることを勧め、1912年二度目の植樹で成功した。当時高まる排日運動のなか、白人世界の人種差別を批判、日本の国際的地位の向上に務めるが、1924年アメリカ議会の排日的な移民制限法案の可決により、新たな日本人移民は一切拒否されることとなり、日米協調態勢は崩れていった。1925年ジュネーブに移住し1928年この地で死去。横浜山手外人墓地に葬られた。
"Jinrikisha days in Japan" New York : Harper, 1891.
【915.2-S416j】
1891年の初版本を所蔵。横浜入港で始まり、鎌倉、東京、日光、箱根、東海道、名古屋、京都、奈良、大阪、神戸を巡り、長崎出港で終わる旅行記。挿絵も豊富で、四季折々の行事や祭りの数々、貧しいながらも自然を愛し、ゆったりと暮らす当時の人々の様子がこまやかに描かれている。特に花見や紅葉狩りなど、花を愛する国民性に注目。日本独自の武士道精神の象徴である桜に心を引かれ、日本古来の高度な文化や風俗を紹介し、日本人の持つ美徳をたたえている。全体を通じて、著者の親日的な姿勢が貫かれている。
邦訳…恩地光夫訳「日本・人力車旅情」有隣堂 1986
【GB648-71】
伝記…外崎克久著「エリザ・シドモアの愛した日本 ポトマックの桜秘史」トツプロ  1996
【GK488-G9】
10)A・S・ランドー  Arnold Henry Savage Landor (1865−1924)
フィレンツェ生まれの英国人冒険家。パリで画家としての教育も受けた。1890年来日、単身で北海道を一周、アイヌの人々と生活をともにし、1893年その旅行記を出版。中国、チベット、ヒマラヤや、ロシアからカルカッタへのアジア縦断、ネパールのランパ山登頂、リオデジャネイロからリマまでの南米横断、アフリカ大陸横断、フィリピン、ミンダナオ島の探検など、数々の冒険旅行を重ね、著作を刊行した。
"Alone with the hairy Ainu. Or, 3,800 miles on a pack saddle in Yezo and a cruise to the Kurile Islands" London : J. Murray, 1893.
【915.2−L261a】
1893年の初版本を所蔵。1890年6月函館を馬車で出発、海岸線に沿って東へ進み、室蘭、 襟裳岬を経て十勝川を遡ってから釧路、屈斜路湖、阿寒湖をまわり根室へ。さらに千島諸島の色丹島へも足をのばし、羅臼、網走とオホーツク海沿いに北上し、宗谷岬へ。そのあと海岸沿いに南下し、石狩川を遡り、札幌、小樽、積丹岬などをまわる、文字通り北海道一周の全行程146日間の旅であった。行く先々で片言の日本語とアイヌ語を駆使しながらアイヌの人々と寝起きをともにし、その生活様式や風俗習慣に強い関心を示し、克明な記録を残している。民俗学や地質学にも詳しく、彼自身によるスケッチも豊富で、明治期の北海道の状況を物語るエピソードも興味深い。
邦訳…戸田祐子訳「エゾ地一周ひとり旅 思い出のアイヌ・カントリー」未来社 1985
【GC5-167】
11)ヘンリー・スペンサー・パーマー Henry Spencer Palmer (1838−1893)
インド生まれの英国の軍人。科学者、技術者として知られる。王立工兵隊士官として、カナダで勤務、シナイ半島の陸地測量探査、ニュージーランドでの金星の太陽面経過観測、バルバドス島および香港勤務を経て1879年初来日。近代化を急ぐ日本で、横浜水道の建設および横浜築港工事に携わる。ジャーナリストとしても活躍し、日本の政治・社会情勢などに関する論文を発表、不平等条約の改正を訴えた。さらに、天文学者として、また日本地震学会の在外会員として、天文、地質、気象、地震などについての研究を続けた。死の翌年、親友ブリンクリー大尉により「日出ずる国からの手紙」が出版された。
"Letters from the land of the rising sun" Yokohama : "Japan Mail" Office, 1894.
【915.2-P174l】
1894年の初版本を所蔵。1885年6月から1893年2月死の直前まで、技術者としての仕事のかたわら、ロンドン・タイムズ社の東京通信員として「東京通信」を送っていたが、その中から26篇を自選したもの。内容としては、日本の憲法および議会の誕生、大隈重信外務大臣暗殺未遂、三条実美の葬儀、ロシア皇太子襲撃事件など政治に関わる記述のほか、火山国日本の地震や噴火についての記述も多い。紀行にあたる箇所は、さまざまな階層の人々で賑わう伊香保や草津の温泉、神道信仰の古くからの中心であった伊勢神宮の祭典、長良川の鵜飼などである。
邦訳…樋口次郎訳「黎明期の日本からの手紙」筑摩書房 1982
【GB648-44】
伝記…樋口次郎著「祖父 パーマー—横浜・近代水道の創設者」有隣堂 1998
【GK477-G4】
12)ウォルター・ウェストン Rev. Walter Weston(1861−1940)
英国聖公会の宣教師・登山家。日本アルプスを初めて世界に紹介、日本山岳会の父と呼ばれる。1888年初来日し、富士山を初め、槍ヶ岳、前穂高岳など日本アルプスの山々に登り、1896年ロンドンで「日本アルプス—登山と探検」を出版。1902年夫人とともに再び来日、1905年まで北岳、甲斐駒ケ岳など南アルプスを中心に登山、1910年日本山岳会初の名誉会員となる。1911年三度目の来日、北アルプスに戻り、奥穂高、立山、白馬などに登る。1915年帰国、1918年二作目の登山記「極東の遊歩場」を出版。さらに1925年の「知られざる日本を旅して」および1926年の「日本」で、日本の歴史や文化、日本人の国民性や山岳信仰、風俗習慣などを紹介した。
帰国後は、日本から訪れる登山家たちを歓待し、満州事変後の対日感情悪化の中、日本の立場を弁護するために、英国中を講演して回ったというほどの親日家であった。1937年、彼が特に愛し、しばしば訪れた上高地に記念碑が建立されている。
"Mountaineering and exploration in the Japanese Alps" London : J. Murray, 1896.
【特38−0181】
1896年の初版本を所蔵。1888年から1895年までの日本滞在中の登山記。信越線の横川から鉄道馬車で碓氷峠を越え、軽井沢に泊まり、浅間山に登り、上田から松本へ出て上高地にはいり、槍ヶ岳を初め、飛騨の笠ヶ岳、美濃の恵那山などに登った。その困難な行程にも拘らず、雄大な渓谷美を絶賛し、山岳地方の風俗や民間伝承、田舎の人々の暖かいもてなし、温泉場の情景などについての描写も多く、日本の自然と日本人に対する深い想いが伝わってくる。
邦訳…岡村精一訳「日本アルプス 登山と探検」創元社 1953
【291.5-cW53n-O】
13)メアリー・クロフォード・フレイザー Mary Crawford Fraser(1851−1922)
元英国駐日全権公使ヒュー・フレイザー卿夫人。アメリカ人彫刻家の父とウォード家出身の母との間に生まれた。幼少期はローマで育ち、デンマークの童話作家アンデルセンやヴィクトリア期詩人のブラウニング夫人と交流を持っていた。その後、母親の再婚に伴いイギリスに渡り、2年間をスイスで過ごした後にローマに戻ってくる。そこでローマ英国公使館の二等書記官だったヒュー・フレイザーと結婚した。その後夫の辞令に伴って中国に出発する。それをはじめとしてウィーン、ローマ、チリと各国を回り、来日。その間、メアリー自身はマラリアに罹るなど、体調のすぐれない日々を過ごしている。彼女の大部の著作「一外交官の妻の諸国体験」や「一外交官の妻の回想録続編」にはほんのわずかしか日本のことは触れられていない。それにもかかわらずその中の一節「私のふたつのほんとうの故郷、日本と南イタリアでは…」という箇所から、彼女が日本を愛していたことが読み取れる。
"A diplomat's wife in Japan : sketches at the turn of the century" New York : Weatherhill, 1982.
【GB648-103】
本書は1899年に出版された"A diplomat's wife in Japan : letters from home to home"の第2版を編集したものである(初版も同年)。原著の持つ味わいは変えずに、フレイザー夫人の5年間の日本滞在を年次ごとに各章をまとめ直してある。
彼女の日本を見る視点は普通の外国人とは若干異なっている。日本独特のものや、自国との違いをことさら強調するのではなく、全世界で共通の普遍的な生命の息づくほとばしりのようなものに視点がおかれているのだ。また日本の風景に限らず、病人や巡礼者までさまざまな庶民を凝視し、身近な明治政府の要人やその家族達の微妙な表情までも捉えている。
邦訳…横山俊夫訳「英国公使夫人の見た明治日本」淡交社 1988
【GB648-E6】

14)H.B.シュワルツ Henry B. Schwartz 米国メソジスト監督教会の宣教師。1893年夫人とともに来日。銀座教会の牧師として英語や聖書を教え、翌年、弘前に赴任、3年後休暇で帰国するが、再び来日。長崎へ赴任し、鎮西学院で英文学、英語、ドイツ語を教え、院長も務めた。その後、南九州教区に転任し鹿児島に在住、1907年「薩摩国滞在記」を書く。この本は、1908年、米国で出版された。同じ教区に属していた沖縄もたびたび訪問、滞在したらしい。帰国したのは1915年で、約20年間日本に滞在したことになる。
"In Togo's country : some studies in Satsuma and other little known parts of Japan" Cincinnati : Jennings and Graham, 1908. 【Ba-286】 1908年の初版本を所蔵。当時日露戦争で大国ロシアを打ち負かした小国日本を、東郷平八郎や大山巌らを輩出した鹿児島に焦点をあてて紹介している。薩摩藩および島津家の歴史、薩摩の気候風土、教育、言語、宗教などについての記述のほか、琉球についても、その歴史や日本および中国との関係を中心にかなり詳しく述べている。また、善光寺巡礼や1896年の大地震直後の秋田県、幕末のハリス領事ゆかりの下田や、歴史の町長崎についても触れている。
当時の中国を蹂躙していたヨーロッパ人を批判し、日本の対外政策を評価し、日本のことを何も知らない当時のアメリカ人に対して、その姿を正しく伝えたいという著者の意図がうかがわれる。
邦訳…島津久大 長岡祥三訳「薩摩国滞在記 宣教師の見た明治の日本」 新人物往来社 1981
【GB648-65】

15)ハーバート・ポンティング Herbert George Ponting(1870−1935)
英国の写真家。世界各地を旅行し、すぐれた風景写真を撮った。特に1910年から1912年、スコット大佐の南極探検にカメラマンとして同行したことは有名である。日本へは1902年ごろから1906年にかけて何度か訪れ、アメリカの特派員として日本陸軍に従軍、日露戦争に参加した。日本中を旅行し、日本の自然や芸術を愛し、的確な評価をしていた彼は、1910年「この世の楽園・日本」を出版、好評を博し、まもなく再版される。そのほかに写真集も出版している。また南極探検の写真展や映画編集にも携わり活躍したが、晩年は事業の失敗や病気のために恵まれなかった。
"In lotus-land Japan" London : J.M.Dent, 1922.
【GB648−A107】
1922年の改訂新版(第3版にあたる)を所蔵。初版は 1910年ロンドンのマクミラン社刊。多数の美しい写真とともに、日本および日本人に対する親しみと尊敬の念がこめられた著作である。京都、阿蘇山、浅間山、富士山の登山、鎌倉と江ノ島、さらに瀬戸内海の宮島など日本の各地を巡っているが、日本の歴史や宗教、風俗についても造詣が深く、通りいっぺんの印象記にはなっていない。日本の社寺や美術工芸品についてもこまやかに観察し、日本女性の強さと美しさを惜しみなくたたえている。風景描写も写真家らしく、詳細かつ的確で、ひじょうに読みやすく書かれている。
邦訳…長岡祥三訳「英国特派員の明治紀行」新人物往来社 1988
【GB648-E5】

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