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第116回常設展示 日米野球交流史

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第116回常設展示 日米野球交流史

キーワード:野球;日米;ベースボール;大リーグ  カテゴリ:歴史・地理・哲学・宗教 件名(NDLSH):野球--歴史  分類(NDC):783.7

 

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平成13年10月1日(月)~11月30日(金)

 

今年に入ってからニュースで大リーグの話題を聞かない日はほとんどありませんでした。日本のプロ野球のニュースより、大リーグで活躍する日本人選手のニュースのほうが大きく取り上げられていたこともあり、海の向こうの遠い存在だった大リーグが急に身近な存在になったような気がした人も多かったのではないでしょうか。
そんな私たちの生活にもっとも身近なスポーツ、野球は明治の初めにお雇い外国人によってアメリカから日本に伝えられました。以来100年以上にわたって、日米の野球はさまざまな形で交流を繰り返し、発展してきました。
今回の展示では、日本野球草創期から戦争を経て日本人大リーガーが活躍するようになるまでの日米の野球交流を、資料を通して紹介いたします。

展示資料一覧

【 】は当館請求記号

野球事始

野球が日本に伝わったのはいつ、誰によってなのかはいくつか説があるようですが、いずれにしても、明治のはじめ頃、お雇い外国人のアメリカ人教師によって学生たちに伝えられたのが学生野球のはじまりのようです。また、同じ頃アメリカ留学から帰国した日本人によって上流階級の人々に伝えられた野球が、それらの学生野球と融合して広まっていきました。


・「ウィルソンズ・リーダー」と「小学読本」

1) 明治文化資料叢書 第10巻
明治文化資料叢書刊行会 編 風間書房 1962
【081.6-M4482】
明治5年に出版された最初の国定教科書「小学読本」には野球のイラストらしきものが載っている。これはアメリカ出版の「ウィルソンズ・リーダー」の翻訳であり、この教科書自体は明治初年から慶応義塾で用いられていたことから、これがもっとも早く日本に野球を伝えた資料ではないかという説がある。

・ホレース・ウィルソン

2)「野球の来歴」 好球生 投
日本 日本新聞社 明治29年7月22日
【YB-140】
ベースボールを日本に最初に伝えたのは、明治5年ごろ第一大学区第一番中学の英語教師ウィルソンだという投書。数日前の正岡子規による記事に「明治14、5年ごろ平岡熈が伝えたらしい」とあり、それに対するウィルソンの教え子による反論となっている。

・アルバート・G・ベーツ

3) クラーク先生とその弟子達
大島正健 著 大島正満 補訂 東京 新教出版社 1948
【289.3-cC5902c】
のちにクラーク博士の教育で有名になる札幌農学校の前身、開拓使仮学校のアメリカ人教師アルバート・G・ベーツが明治6年ごろ本国から持参した三個のボールと一本のバットで生徒たちに野球を教えたとある。

・平岡熈

4)日本三球人
五十公野清一 世界文庫 1968
【FS35-31】
明治4年に渡米し、機関車製造技術を学んだ平岡熈は在米中に野球に熱中し、明治10年(9年とも言う)に帰国した後、日本初の野球チーム「新橋アスレチックス」を結成するなど日本野球の普及に貢献した。

・ルールブック

5)Outdoor games.
By F.W.Strange.Tokyo, Z.P.Maruya, 1883
【YDM108431】
日本で出版された野球のルールを紹介した最初の本は、東京大学のお雇いイギリス人教師、F.W.ストレンジの出版した小冊子だった。野球のみの解説書ではなく、さまざまな野外スポーツの実際を紹介したもの。
6)西洋戸外遊戯法
下村泰大 泰盛館 明治18年3月
【YDM75540】
"Outdoor games"の翻訳。ベースボールを「打球鬼ごっこ」と訳している。
7)ベ−スボ−ル術
高橋慶太郎 同文館 明治29年7月
【YDM75732】
単なるルール紹介ではなく、野球用語、用具なども紹介されている野球指導書。日本初の野球単行本という説もある。

・野球用語の変遷

8) 六大学野球全集 上
庄野義信 改造社 昭和6年
【614-102】
野球用語の変遷。「ストライカー」→「打者」「番人」→「内野手」「文太球」→「ホームラン」など、昭和のはじめ頃には現在とほぼ同じ用語が使用されていたことがわかる。
9)野球
中馬庚 前川善兵衛 明治30年7月
【YDM75750】
「野球」という訳は明治26年に第一高等中学校野球部監督をしていた中馬庚によって定められた。本書はその中馬庚による野球指導書。
日米野球対戦試合事始

最初の日米野球対戦試合はいつ行われたかについては、明治9年(1876)とする説など、複数の説があります。明治末期になると、日本のチームがアメリカに遠征したり、アメリカのチームが日本に遠征したりするようになりました。

・明治29年(1896)、一高が横浜の外国人チームと対戦

10) 白球太平洋を渡る 日米野球交流史
池井優 中央公論社 1976
【FS35-155】
明治29年5月23日、第一高等学校野球部が、横浜在住の外国人によるアマチュア・クラブと対戦し、29対4で勝利。本書では、これを日本初の対外試合としている。一高は4戦して3勝1敗。このことを新聞が報道し、全国に野球熱をあおったという。

・日本野球チーム初のアメリカ遠征

11) 早稲田大学野球部史
飛田忠順 明善社 大正14年
【541-31】
明治38年(1905)、日露戦争の最中に早稲田大野球部13名がアメリカに遠征。大学チーム等と26戦して7勝19敗。早大は投手不足のため、河野安通志投手が連投を余儀なくされ、苦戦した。しかし、この遠征で日本にはなかったアメリカの科学的野球を吸収することができた。当初はアメリカ全土を転戦する計画だったが、資金不足のため西海岸のみとなった。

・初の外国野球チーム招待

12) 野球歴史写真帖
野球界社編 野球界社 大正12年
【423-117】
明治40年(1907)10月に、布哇(ハワイ)セントルイス軍が来日した。解説文によると、このチームは「商売人テイーム」。セミ・プロチームだったと思われる。対戦した早稲田大学は全敗、慶應大学は2勝3敗だった。

・初の大リーグチーム来日

13) 野球年報 第13号
美満津商店野球年報編纂部編 美満津商店 大正3年
【95-9】
大正2年(1913)12月に大リーグのニューヨーク・ジャイアンツとシカゴ・ホワイトソックス両チームによる世界周遊大野球団が来日。慶應大学は16対3の大差で敗れる。来日した大リーガーが日本選手をはるかに凌駕した実力を見せたことから、本書では「嗚呼彼等は実に球界の鬼神である。」と表現している。
野球見物

早稲田・慶応チームの渡米や、米国球団の相次ぐ来日で、徐々に野球は見るスポーツとして定着して行きました。そんな中、熱心な野球ファンによる米国野球観戦記や、野球観戦初心者のための解説本も出版されました。

14) 米国野球事情
山口竜吉 東京堂 明治42年8月
【YDM75716】
ニューヨーク在住の野球ファンである著者による、米国野球の概要。
15) 野球の米国
林富平 米国実業視察団 大正9年
【395-58】
米国野球界の花形百数十名のデータ紹介。
16) 野球通になるまで
横井春野 野球界社 昭和5年
【606-75】
野球ファンのために歴史・試合を面白く見る方法・規則などを紹介したもの。
ベーブ・ルースがやってきた

大リーグのスーパースター、ベーブ・ルースがオールスターチームの一員として、昭和9年(1934)11月に来日しました。成績はオールスターチームの全勝でしたが、全日本チームの沢村栄治投手の好投が光りました。

・大リーグのオールスターチーム来日

17) 「号外」昭和史 第3巻
羽島知之 大空社 1996.4
【YP5-812】
p.113は、昭和9年(1934)11月2日の読売新聞号外。来日した大リーグのオールスターチームは、東京駅−銀座−新橋−帝国ホテルのルートでパレードを行った。ベーブ・ルースの人気は日本でも絶大で、大群衆がパレードを囲んだ。

・ 沢村栄治

18) 不滅の大投手・沢村栄治
鈴木惣太郎 恒文社 1982.9
【Y77-6068】
昭和9年11月20日の試合で、オールスターチームを相手に被安打5、奪三振9の好投を見せる。ベーブ・ルースからも三振を奪った。しかし、試合は0対1で日本チームの惜敗。その後、同年12月に発足したプロ野球チームの大日本東京野球倶楽部(現読売ジャイアンツ)に入団。昭和19年12月2日、台湾沖にて戦死。

・ ベーブ・ルース

19) ベ−ブ・ル−ス自伝 不滅の七一四本塁打への道
ベ−ブ・ル−ス著 宮川毅訳 ベースボール・マガジン社 1973
【KD962-18】
大リーグのホームラン王、ベーブ・ルースが対戦した全日本チームについての感想を述べている。
「ぼくがまず驚いたのは、日本選手の守備が上手なことと、ピッチャーにうまいのがいることだった。ただ、打撃はさっぱりだった。」
戦争による交流断絶

戦争の激化に伴って物資の不足、外国人選手の帰国、選手の徴兵などが進み、野球を囲む状況は徐々に厳しくなっていきました。さらに野球はアメリカの国技として敵視されはじめ、徐々に休止せざるを得ない環境になっていきました。

20) 「日本球界への要望」飛田穂洲 昭和18年2月
相撲と野球 博文館 博文館 1943
【雑35-83】
日に日に厳しくなる野球締め出しの風潮の中、ついに愛知県で野球の締め出しが行われ、これに対する異論反論が野球雑誌上に巻き起こった。
21) 消えた春
牛島秀彦 第三書館 1995.8
【KD962-G403】
22) 戦争と野球
川崎徳次 ベースボール・マガジン社 1997.8
【KD962-G180】
体格の良いプロ野球選手たちは早くから応召されたため、「軍隊で1チーム作ったほうが強い」とまで言われた。無事に復員して戦後球界に復帰したものもあったが、多くの名選手が戦死した。
23) 後楽園の25年
後楽園スタヂアム社史編纂委員会 編 後楽園スタヂアム 1963
【780.67-Ko648k】
昭和18年、野球用語から全面的にカタカナが追放された。「ストライク」は、「よし一本」、「ファウル」は「だめ」、「セーフ」は「よし」、「アウト」は「ひけ」など、剣道の審判用語にならったものに変えられたため、慣れない審判がたびたび言い間違えることもあった。また、観客不足の中、アトラクションとして軍装の選手による米英撃滅手りゅう弾投げなども行なわれた。
GHQ/SCAPの野球政策と復興

マッカーサーは、日米親善のために1949年マイナーリーグのサンフランシスコ・シールズを招きました。また、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)経済科学局長、W.F.マーカット少将は、戦後の日本プロ野球が発展していく上で、大きな役割を果たしています。

・GHQ/SCAP

24) #300, San Francisco Seals
1949.6-1949.10 GHQ/SCAP Records, Legal Section.
【LS 17496】
GHQ/SCAPに対し、親善試合実行委員会の役職を兼ねていたマーカットが、S.F.シールズの日本における非営利活動の許可を求めた文書と思われる。なお、GHQ/SCAP Recordsは、憲政資料室が所管するマイクロフィッシュで、原資料は米国国立公文書館(RG331)で所蔵している。

・マーカットとキャピー原田

25) 太平洋のかけ橋 戦後・野球復活の裏面史
キャピ−原田 ベ−スボ−ル・マガジン社 1980.6
【KD962-105】
マーカットの副官だった日系アメリカ人キャピー原田(原田恒男)中尉は、S.F.シールズの来日の際、裏方として活躍した。また、マーカットは1リーグ制だった日本球界に2リーグ制をすすめたり、セントラル、パシフィック両リーグ分裂後に「選手の引き抜き行為を一掃するよう」声明を出して混乱収拾につとめたりした。

・レフティ・オドール

26) 伝説のレフティ・オド−ル
リチャ−ド・ル−ツィンガ−著 佐山和夫訳 ベ−スボ−ル・マガジン社 1998.1
【KD962-G258】
戦前は1931,34年に大リーグチームのメンバーとして、戦後は1949年にS.F.シールズの監督として来日した。それ以外にも戦前戦後を通じて、コーチとしてたびたび来日し、日本選手を指導した。マッカーサーは、「オドールたちは最高の親善大使だった」と語ったという。
助っ人外国人

プロ野球では誕生直後から多くの外国人選手が活躍していました。彼らの存在は日米の野球をつなぐ重要な役割を担っていたといえるのではないでしょうか。

◎戦前

続々と日本にプロ野球チームが誕生する一方で、世間には野球を職業とすることへの根強い偏見がありました。また、満州事変以降の長期の戦争により、慢性的な選手不足に悩んだ各球団が目をつけたのは日系二世選手と外国人選手でした。

・ジミー堀尾

27) ベ−スボ−ルの社会史
永田陽一 東方出版 1994.7
【KD962-E450】
ハワイで生まれた日系二世ジミー堀尾はロスアンゼルスのチームや、ベーブ・ルース来日時の全日本チームに参加したのち、プロ野球誕生直後の阪急・タイガースで活躍した。

・ボゾ若林忠志

28) 七色の魔球
山本茂 ベースボール・マガジン社 1994.10
【KD962-E496】
ハワイ出身の日系人選手ボゾ若林忠志は七色の変化球をあやつる希代の名投手といわれた。戦争を機に日本に帰化、戦後も選手・監督としてプロ野球で活躍した。

・バッキー・ハリス

29) ハロ−、スタンカ、元気かい
池井優 創隆社 1983.7
【Y77-6026】
日本プロ野球外人選手第一号バッキー・ハリスは昭和12年最高殊勲選手に選ばれた。

・V・スタルヒン

30) ロシアから来たエース
ナターシャ・スタルヒン PHP研究所 1986.8
【KD962-245】
スタルヒンはロシア革命を逃れて日本に亡命した白系露人だったが、日本の小中学校に通い、全日本チーム、読売巨人軍などで活躍した。しかし無国籍だったため、戦時中は須田博という日本名に改名させられた。

◎戦後

戦後、数多くの助っ人外国人選手が来日し、日本でプレーしています。日系アメリカ人選手や大リーガーも来日しています。

・ウォ−リ−与那嶺

31) 野球を変えた男
ウォ−リ−与那嶺,山本茂 ベ−スボ−ル・マガジン社 1992.2
【KD962-E322】
昭和26年(1951)に戦後初の助っ人外国人選手、日系アメリカ人のウォ−リ−与那嶺(与那嶺要)が読売巨人軍に入団。首位打者のタイトルを3度獲得するなどの活躍を見せた。与那嶺の成功で日系人がスカウトされるようになり、1950年代に日系二世ブームが起こった。昭和37年(1962)引退。昭和49年(1974)には、監督として中日ドラゴンズをリーグ優勝に導いた。

・赤鬼

32) 地球(アメリカ大リ−グ)のウラ側にもうひとつの違う野球があった
ボブ・ホ−ナ−著 安西達夫訳 日之出出版 1988.6
【KD962-E67】
それまで日本に来る助っ人外国人の大リーガーは、二線級の選手や盛りを過ぎた選手だった。しかし「バリバリの"現役大リーガー"」ホーナーが昭和62年(1987)に来日、ヤクルトスワローズに入団したことで日本の野球は盛り上がった。ニックネームは「赤鬼」。
日本人メジャーリーガー誕生

村上雅則投手が日本人初の大リーガーになったのは1964年のことです。それから長い年月が経ち、野茂英雄投手が2人目の日本人大リーガーとなったのは1995年のことでした。その後、多くの日本人選手がアメリカに渡り、大リーガーとして活躍するようになりました。

・昭和39年(1964) 村上雅則投手大リーグ昇格

33) たった一人の大リ−ガ−
村上雅則 恒文社 1985.7
【KD962-239】
南海ホークス(現福岡ダイエーホークス)からマイナーリーグのチームに留学していた村上雅則投手が、1964年9月に大リーグのサンフランシスコ・ジャイアンツに昇格した。昭和41年(1966)南海に復帰、昭和57年(1982)引退。村上の在米中、キャピー原田は南海とS.F.ジャイアンツの橋渡し役を務めたという。

・大リーグボール

34) 巨人の星 14
原作:梶原一騎 劇画:川崎のぼる 講談社 1976
【Y84-1866】
主人公の星飛雄馬投手が開発した3種類の変化球の名前は「大リーグボール1号、2号、3号」。大リーグボール2号は、星投手の投げたボールが、ホームベース上を通過する際に消えてしまう"魔球"。連載当時(1966-71)の日本人が抱いていた大リーグ観がうかがえる。

・代理人

35) 日出づる国の「奴隷野球」 憎まれた代理人・団野村の闘い
ロバ−ト・ホワイティング著 松井みどり訳 文藝春秋 1999.11
【KD962-G344】
野茂英雄や伊良部秀輝が大リーグに行く際、所属球団との契約問題がこじれ、日本球界は大きく揺れた。アメリカに事務所を持つ契約交渉の代理人、団野村へのインタビューをもとに、彼が代理人をつとめた野茂、伊良部、マック鈴木、吉井理人などのアメリカ行きの経緯が、「契約」の視点から書かれている。

・野茂投手、大リーグ初勝利

36) 新聞紙面で見るプロ野球史 昭和9年→平成8年 最新版 永久保存版
上田印刷 1997.1
【YP17-213】
p.186は、平成7年(1995)5月4日と6月4日付のスポーツニッポン。平成7年大リーグのロサンゼルス・ドジャースに入団した野茂英雄投手は、5月2日、大リーグの試合に初登板したが勝敗はつかなかった。6月2日に初勝利をマーク。日本人投手の勝利は、村上雅則以来30年ぶり。

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