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第132回常設展示 花火の情景

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第132回常設展示 花火の情景

キーワード:花火  カテゴリ:科学技術 件名(NDLSH):花火--歴史  分類(NDC):575.98

 

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平成16年7月1日(木)~8月31日(火)

 

夏は夜、昼間の暑さが和らぎ、涼やかな風が吹きはじめる頃、遠くから花火の音が聞こえてきます。日本に花火が広がった江戸時代、あの徳川家康が花火見物をしたとの記録も残されています。庶民の間でも花火は広く親しまれ、納涼期間ともなると大川(隅田川)では、涼を求める屋形船や物売りの船、花火船が川面を賑せていたようです。
そして現代、やはり納涼の風物詩といえば花火です。科学技術の進歩により、江戸庶民の楽しんだ花火に比べると、現代の花火は遥かにカラフルで多種多様になりました。それでも、花火の風情を楽しむ私たちの気持ちは江戸時代から変わらないのではないでしょうか。今回の展示では、日本の花火の歴史を追って、その製法や種類、そして花火を楽しむ人々の様子がうかがえる資料をご紹介いたします。

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A 日本における花火の誕生〜江戸時代の花火

花火の元となる火薬は唐代中国において発明されました。その後、ルネッサンス期イタリアにおける火薬・銃火器の発展を経て、天文12年(1543)、種子島に鉄砲・火薬が伝来します。これを期に日本に火薬が広まり、その中から花火が発生しました。江戸時代に入り、火薬の平和利用が進んだことが花火の発展の一要因と言えるようです。
当時の花火は橙色のごく暗い光で「和火(わび)」と呼ばれています。現代とは違い、夜になると暗闇になる江戸時代だからこそ、暗い光でも目立ったようです。この様子は多くの錦絵にも描かれています。

1) 『武徳編年集成』
木村高敦著 名著出版 1976年
【GB335-1】
「八月小○三日花火精錬ノ大明商客長崎ヨリ参府シテ伊幾理須人トトモニ拝謁ヲ遂ル(中略)六日黄昏ニ二之丸ニ於テ神君并ニ公子三人大明人ノ花火ヲ見玉フ」
慶長18年(1613)8月、長崎に商館を建てたイギリス人が明商人と共に徳川家康に面会。この際尾張、紀伊、水戸の徳川御三家初代藩主とともに家康が花火見物をしたとの複数の記録が残されており、これが日本における最初の観賞用花火見物とされています。この花火は筒を立てて黒色火薬をつめ、これに点火すると火の粉が噴き出すというものでした。
2) 『仙台花火史の研究』
岡田登著 〔岡田登〕 1993年
【GD28-E103】
一方、天正17年(1589)、伊達政宗が花火見物をしたのが日本最初の花火見物との説もあります。派手好きで知られる伊達政宗らしいエピソードです。
「…伊達政宗(一五六七〜一六三六)に関する日記の『(伊達)天正日記』および伊達家に伝わる歴代の治家記録の『伊達家治家記録』(「貞山公治家記録」)によれば、米沢の居城において、次のことがあったと記されている。
天正十七年(一五八九)七月七日に「夜になって、外国人(大唐人)が三人来て、花火をおこない、その後、歌も歌った」とある。
同年同月八日「夜になって、外国人が花火を配った。伊達政宗様がなさいました。一段と見事でした」…。」
3) 『新編稀書複製会叢書 第34巻』 「月次のあそび」
中村幸彦,日野竜夫編 臨川書店 1991年
【KH5-E2】
筒の先から火花が吹き出す噴き出し花火。回転するように棒の先端に花火を取り付けた「火車」を手に持って楽しむ様子が描かれています。船を仕立てて花火をすることは非常に贅沢な遊びでした。
4) 『和漢三才図会 8』
寺島良安[著] 島田勇雄[ほか]訳注 平凡社 1987年
【UR1-100】
江戸時代の百科事典。「花火」の項目では鼠花火も紹介されています。
「思うに、花火はほう燧に代えることのできるものである。また夏月には河辺の遊興とする。…その花形には牡丹・芍薬・菊・梅・桜・柳・芒などの数品種があり、その製法は家伝秘法としている。…鼠花火というのがある。三寸ばかりの葦の管を用い、薬末をそれに盛って作る。火を口薬につけると忽ち喞喞という音を出して走る。小児はこれで遊ぶ。」
5) 『風刺画』 「子供遊花火の戯れ」〔複製〕
【寄別8-4-2-3】
子どもが花火をしている様子。大名たちの贅沢な遊びであった花火も次第に庶民の間に広まり、江戸の町では他の物売りと同様に花火売りが登場し、ねずみ花火、線香花火などのおもちゃ花火が流行しました。当時のねずみ花火は現在のような円型ではなく、細長い筒型だったとみられます。
6) 『御触書寛保集成』
高柳真三、石井良助共編 岩波書店  1934年
【322.15-Ta452o】
木造家屋が密集する江戸では火事が多かったため、幕府は市中での花火に神経をとがらせていました。「前々如相觸候、於町中、彌花火立申間敷候、但大川筋海手之分は不苦候」とあるように、 慶安元年(1648)に最初の花火禁止令が出されて以来何度も禁止令が出されましたが、大川の河口付近では例外的に花火が認められていました。
7) 『玉露叢 下』
山本武夫校注 人物往来社 1967年
【210.52-G98】
度々花火禁止令を出した4代将軍家綱自身も寛文9年(1669)7月と8月に江戸城二の丸で花火鑑賞をしており、特に8月は「酉の刻」から「亥の後刻」まで4時間以上にも及んでいます。庶民が禁止令をあまり守らなかったのは無理もないことかもしれません。
8) 『花火秘伝集』 〔マイクロ複製〕
【W451-3】
ねずみ花火をはじめとした様々な花火の原料の配合、花火のあげ方などを詳細に記してあります。展示は「石竹」という花火の解説ページ。石竹とは、唐ナデシコのこと。
「石竹
一 ゑんせう  百目
一 いわう   拾四匁
一 はい    三拾五匁
一 鉄     四匁五分
右竹の枯たるを長五寸斗ふしを付て切穴一つ如図扨薬を随分かたくつめ尻込み綿まな板のごとく足を附とほし候口火は手ぼたん也」
9) 『花火之図』 〔マイクロ複製〕
【192-110】
噴き出し花火と回転する火車などを組みあわせ、様々な趣向を凝らした華やかな仕掛け花火の図が彩色で描かれています。展示は「三本大傘」。
※ 展示資料はマイクロフィルムを加工したパネルのため、モノクロとなっています。
10) 『花火製造法』 〔マイクロ複製〕
【京乙-296】
「流星花火」をはじめとする100種類以上の花火の材料、配合を記載。当時の花火が「焔硝、灰、硫黄」を主原料としていたことがよく分かります。

「○玉火
一 焔硝   拾匁
一 灰    六匁
一 硫黄   四匁
一 せうのふ 弐匁
よくよく挿諸白の酒茶せんにて合薬の中へそろそろとかたまりそふなきとき玉を入べき程筒を三つに割て糸にてからげ薬をこめかたむれ様玉の諸先を少しけずり中につまる様に入べし併あまり筒にきしまるは玉のくだけて悪しゆるくかたくをく様に能かんじてつめべし」

11) 『新編日本古典文学全集 82』  「紫の一本」
小学館 2000年
【KH2-E9】
「花火舟をば呼びかけて、一艘切にたてさする。枝垂柳に大桜、天下泰平文字うつり、流星、玉火に牡丹や蝶や葡萄に車火や、これにて仕出しの大からくり、挑灯、立笠御覧ぜよ。火うつりのあぢはひは仕たり。」
花火舟を仕立て、さまざまな花火を楽しむ様子が描かれています。「紫の一本」が著わされた天和2年(1682)頃はまだ空中で花開く打ち上げ花火は登場しておらず、地上に立てた噴き出し花火、文中にもある絵や文字を浮かび上がらせる仕掛花火やからくり花火、「流星」という尾を引いて空中に上がるロケット花火などが主流だったと考えられています。
12) 『甲子夜話 2』
松浦静山著 平凡社 1977年
【GB391-829】
文化元年(1804)、日本橋下三股での花火の番付。全69番のうち12、38、52、65番が「打揚」花火でした。打ち上げ花火の最古の記録ともいわれます。ただし、江戸時代にはまだ花火を真円に開かせる技術がなかったため、現在のようなまん丸な花火ではなかったとみられます。
13) 『花火/下町/隅田川:両国の花火二五〇周年記念誌』
隅田川花火大会実行委員会編 隅田川花火大会実行委員会 1983年
【GD28-152】
万治2年(1659)、大和の篠原村(奈良県吉野郡)から江戸にやってきた篠原弥兵衛が両国に鍵屋を構え、花火を売り出したところ大変な評判となり大繁盛しました。その年のうちに御本丸御用達になり、弥兵衛の名は代々世襲されてゆきました。一方の玉屋は文化7年(1810)鍵屋の手代だった清七が独立して鍵屋の向かいに構えた店でした。大川の花火は上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持ち、花火大会では2大花火師の競演に「玉や、鍵や」と歌舞伎をまねた掛け声が飛びました。当時は玉屋の方が技術も人気も高かったようで、「橋の上、玉や玉やの声ばかり なぜに鍵やといわぬ情けなし」といった歌も残されていますが、天保14年(1843)5月17日に玉屋は火事を出し、財産没収、江戸追放、家名断絶の処分を受け、一代限りで絶えてしまいました。
14) 『扨化狐通人』 〔マイクロ複製〕
可笑戯作 清長画 安永9年(1780)
【207-57】
この物語の最後では、杉の森稲荷の化身である狐の兄弟が人間に化け、それぞれ「玉屋」、「鍵屋」という花火屋を繁盛させます。左上の暖簾に「玉屋」の文字が見え、当時の花火屋の様子がうかがえます。実際の鍵屋は鍵屋稲荷を守護神としており、その祠の狐の一方が鍵を、もう一方が擬宝珠を持っていました。鍵屋の手代だった清七は独立の際にこの玉を与えられ、「玉屋」を屋号とすることを許されたのです。

壁面1.『両国納涼花火之図』 一立斎広重 〔複製〕          【寄別7-1-2-2】
壁面2.『名所江戸百景』 「両国花火」歌川広重 〔複製〕       【寄別1-8-2-1イ】
壁面3.『風俗錦絵雑帖』 「両国川開の花火」楊洲周延 〔複製〕    【寄別2-9-2-1】

江戸時代、大川の納涼花火の様子。享保18年(1733)、大飢饉の追悼のため、吉宗が大川で水神祭を催した際に花火をあげて以降、大川の納涼期間の1日目に行われる花火大会が江戸の年中行事となりました。これが現在の隅田川花火大会の起源です。この時の花火を受け持ったのが6代目鍵屋弥兵衛です。当時の花火はとても贅沢なもので、それを楽しむ大商人たちには一種のステイタスとされました。江戸時代の俳人、其角には「一両の 花火間もなき 光かな」という句があります。

B 文明開化と近代の花火〜現代の花火

文明開化に伴い、外国から多色で明るい火薬がもたらされ、これを使用したカラフルな花火、「洋火」が登場しました。また、現代ではこれまで無かった星型、ハート型などの新しい型物花火や、世界最大の四尺玉などが開発されています。また、江戸時代に始まる隅田川の花火大会は、戦時中等の一時的な中断を乗り越え現代に受け継がれ、一方では日本の花火が海外のさまざまな地域で打ち上げられる等、伝統を守りながらも進化する日本の花火の様子がうかがわれます。

15) 『西洋烟火之法』〔近代デジタルライブラリー〕
清水卯三郎訳 丸屋善七 1881年
【YDM67551】
1874年にイギリスで刊行された「オエクシオップ」を訳したもので、青、赤、黄などの色を出す火薬の配合など当時最先端の技術を紹介。1879年頃から塩素酸カリウムなどさまざまな色を出すための化学薬品が輸入されるようになり、1887年頃には11代目鍵屋弥兵衛が硫化バリウムや炭酸ストロンチウムを用いた「洋火」を製造することに成功しています。
16) 『錦絵幕末明治の歴史 10』
小西四郎著 講談社 1977年
【GB415-39】
9枚続きの「憲法発布式祝祭図」(幾英画)。上図は中央3枚、下図はその右と左につながる3枚です。明治22年(1889)2月11日の大日本帝国憲法発布を祝して東京中で花火が打ち上げられました。二重橋から打ち上げられた花火は「洋火」であったといわれています。この資料でも上図、下図それぞれの上部に花火が描かれています。一緒に描かれているダルマや金魚は花火と一緒に打ち出された紙製のおもちゃです。このようなおもちゃは「袋物」と呼ばれ、昼に打ち上げられる昼花火によく用いられました。
17) 『東京風俗志』
平出鏗二郎著 八坂書房 1991年 富山房明治32〜35年刊の合本複製
【GC65-E41】
明治初期の両国川開きの様子。避暑、夕涼みといえば両国の川遊びだった江戸時代よりは普段の人出は少ないものの、川開きの日の賑わいは変わらなかったようです。
「…当夜は花火数百本を打揚ぐれば、人も夕涼を兼ねて群集す。されば両国橋の上は桁の撓まんばかりに、人を以ってみ、陸は大橋際より浜町河岸、百本杭の辺まで水菓子屋、氷水屋、あるはゆで小豆屋などの露店の列り、遊客群集して雑とういうべからず。河には、驕れる客は屋形船、屋根船を泛べて、妓を載するもあり、卑しきは土船、砂利船の乗合に乗組みて、うち騒ぐもあり。あるは伝馬、茶船などに。日覆を懸け、紅球燈を繋ぎて、馬鹿囃子うちはやして興ずるもあり。船と船との押台い、争闘此処彼処に起りて、水上の混雑また言いも尽くすべからず。さて茶屋、料理屋等の繁昌も、目を驚かすばかりなり。…」
(富山房明治32〜35年刊の『東京風俗志』は〔近代デジタルライブラリー〕でごらんになれます)
18) 『山下清画集』「長岡の花火」
山下清画 ノーベル書房 1981年
【YP14-777】
放浪の画家として有名な山下清は、花火をモチーフにした作品を何点も残しています。「長岡の花火」では、夜空に上がる花火と川面に映る花火、そして見物する無数の群集が緻密な貼絵によってダイナミックに表現されています。
19) 『花火うかれ : 全国花火大会と楽しみ方図鑑』
日本交通公社出版事業局 1994年
【PA611-E9】
現代の花火を分類している。打ち上げ花火は丸く開く「割物」と、上空で二つに割れてパラシュートなどの中身が零れ落ちる「ポカ物」に大別されます。割物は更に形により区別されますが、その中で最も歴史が古く代表的なのが尾を引いて花開く「菊」です(代表的な花火の写真は21.『花火千夜一夜:ひとときの夢をもとめて』で紹介しています)。
20) 『花火百華』
小野里公成著 丸善 2000年
【PA611-G11】
日本の花火玉は球状に作られ、上空でも丸く同心円(球)を描いて広がります。また、中に入っている一つ一つの「星」は開いてから二色三色と色を変化させます。これに対し外国の花火玉は円筒形をしており、打ち上げると底が開いて垂れ下がるように広がるため丸くならず、「星」の色も単一で変化しません。
21) 『花火千夜一夜:ひとときの夢をもとめて』
ジェー・アイ・シー・シー企画制作局編集制作 JICC出版局 1984年
【GB82-53】
尾を引いて丸く開く「菊」、花開いた後も星が柳のように尾を引いて流れ落ちてくる「冠(かむろ)菊」、多数の小花が一斉に開く「千輪」などの代表的な打ち上げ花火です。打ち上げ花火は色や形によって名前(玉名)をつけられますが、この玉名のつけ方には一定のルールがあります。これを覚えると玉名を聞いただけで花火のデザインや打ち上げたときの変化まで分かります。例えば「八重芯引先紅光露」ならば花火の中心に2重の芯を持ち、尾を引いて広がった星の先が赤く変化し、最後に先端が光って消える、といった具合です。
22) 『Explosion』(Vol.2 No.1)
「大空に咲く大きな火の花(花火を観る:鑑賞側からの花火の考察)」
武藤輝彦、宮原章著 火薬学会 1992年

【Z17-1522】
諸外国の花火の様子を記しています。上記20.『花火百華』で紹介されている構造上の理由により、同心円状に広がる花火ではなく、垂れ下がるように広がる花火。玉名の付け方にも特徴があります。また、欧米では花火の一玉一玉を鑑賞する習慣はなく、多数の花火で構成したプログラム全体を一つの見世物と捉える傾向が強いようです。日本でも欧米の影響を受けたスターマイン等の連続打ち上げが一般的となっていますが、依然として一つ一つの花火を重視することに変わりはありません。
23) 『世界の空に花火を咲かせて』
小勝郷右著 かのう書房 1987年
【DL536-E1】
日本の花火製造術は世界一と言われています。国際交流の発展とともに日本の伝統文化のひとつとして日本製花火が海外で打ち上げられることも増えています。欧米、アジアはもちろん、中南米、アフリカ、中近東など世界各地で日本の花火が上げられています。
24) 『花火大会に行こう』
武藤輝彦、小野里公成、川上信定著 新潮社 1997年
【PA611-G6】
丸いだけではなく、星型、ハート型など、新しい形の型物花火が登場しました。丸い花火とは違い平面で形をつくるため、観る位置によっては何の形か分からなくなってしまうという弱点がありますが、花火師の創意工夫をこらした楽しい形が数多く生み出されています。
25) 『日本列島花火旅』
出井邦子文 馬場隆写真 小学館 1996年
【PA611-G2】
新潟県小千谷市片貝町は世界一大きな花火、4尺玉の打ち上げで有名です。重量220kg、直径110cmの花火玉は上空で直径約800メートルの巨大な花を開きます。
 
参考資料(展示はしておりません):ご利用は調査・研究目的に限られます。人文総合情報室カウンターでご相談ください。
 
『Tokyo, its people and sounds (vol. 1). 東京の音 (第1集)』
【VA140-A17-19-3】
「Fire works on the river Sumida 両国の花火」*録音資料 (蘆原英了コレクション)
両国の花火の音など、東京の音をテーマに収録したレコード。花火の音の合間に「たまや〜」という掛け声がとんでいます。

主要参考文献

『花火−火の芸術』
小勝郷右著 岩波書店 1983年
【PA611-21】
『日本の花火のあゆみ』
武藤輝彦著 リーブル 2000年
【PA611-G12】
『花火ものがたり : 狼煙から現代花火まで』
江口春太郎著 中日新聞本社 1982年
【PA611-18】
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