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第139回常設展示 万国博覧会 −初めて尽くしの万博物語−

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第139回常設展示 万国博覧会 −初めて尽くしの万博物語−

キーワード:万国博覧会明治時代;江戸時代;ロンドン;パリ;ウィーン  カテゴリ:経済・産業 件名(NDLSH):万国博覧会--歴史  分類(NDC):606


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平成17年9月22日(木)~11月15日(火)


『特命全権大使米欧回覧実記』より

はじめに特命全権大使米欧回覧実記

今回の展示では、ロンドン、パリ、ウィーンで開催された三つの万国博覧会を中心に、幕末・明治の日本が体験した「はじめての」万博にまつわる当館所蔵資料をご紹介します。

今からおよそ140年前の1862(文久2)年、ちょんまげ姿の武士たちが、ロンドンの万国博覧会で世界最先端の文物を目にしました。初めて世界の進歩を目のあたりにした彼らは、その様子を日記などの記録に残しています。 その後、日本が初めて万博に展示物を出品したのは、1867(慶応3)年のパリ万博とされています。日本の存在を世界に広く知らしめたのはこのときといえるでしょう。続いて、政府として初めて万博に参加したのは、1873(明治6)年のウィーン万博でのこと。 全国津々浦々から様々な品を収集し、ヨーロッパ大陸に乗り込んだのです。

初めて万博を目にした日本人は、何を感じたのでしょう。初めて万博に登場した日本は世界にどんな印象を与えたのでしょう。初めて尽くしの万国博覧会をどうぞご覧ください。

 

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1.ロンドン万国博覧会 開催年:1862(文久2)年

第一章では、日本人が初めて見た万博の様子をご紹介します。オランダ・イギリス・フランスと結んだ修好条約により兵庫・新潟、江戸・大坂の開港開市を迫られていた江戸幕府は、1861(文久元)年、開港開市の期日を延期する交渉を行うため、使節団をヨーロッパに派遣しました。 「文久使節団」と通称されています。外国奉行兼勘定奉行の竹内下野守保徳を正使とするこの使節団には、随員として福沢諭吉、福地源一郎(桜痴)、松木弘安(のちの寺島宗則)も同行していました。
このときイギリスでは、時同じくしてロンドン万国博覧会が開催されていました。

■使節団がイギリスに上陸した翌日の1862年5月2日(旧暦文久2年4月3日)はロンドン万国博覧会の開会式当日でした。どうにか開会式に滑り込んだ使節団は、会場で日本の展示コーナーを見つけます。駐日公使ラザフォード・オールコックが、私的に収集した日本の文物を出品したものでした。使節団のメンバーたちは、これらの文物をあまり評価していません。世界最先端の品々の中にあって、見劣りすると感じたのでしょうか。ただ、ヨーロッパの人々は日本の展示物を評価する向きも多かったようです。

◆1) Scientific record of the London Great Exhibition of 1862.
London 1862.
【49-23】
ロンドン万国博覧会の記録集。出展された品々を、織物の原料、造船、工業機械などの部門ごとに分けて解説してある。 精巧な版画が多数掲載され、コールタールから合成した紫色染料の箇所には布見本(◇壁面1)も添付されている。

◆2) The capital of the Tycoon: a narrative of a three years' residence in Japan
by Sir Rutherford Alcock ... With maps and numerous illustrations in chromolithography and on wood ... London Longman, Green, Longman, Roberts & Green 1863.
【A-72】
オールコックは、イギリスの駐日総領事として1859年から日本に滞在した。日本の文化に深い興味を持ち、特に美術工芸の優秀さに注目した彼は、自ら収集した漆器、錦絵、七宝等をロンドン博に送りこんだ。 それら出品物を見た画家のレイトンによる賞賛の言葉が引用されている。「古風な趣きのある美しさが日本のすべてを支配しているように思われる−きわめて精巧な仕上げをほどこされた色の調和、そして対称をさけ、するどい対称をよろこぶ趣き−まさに他のすべての国とは反対である。」
※日本語訳:『大君の都』 オールコック著 山口光朔訳 岩波書店 1962 【210.58-cA35o2-Y】

■使節団のメンバーは丸一年をかけてヨーロッパを旅しました。最先端の文明を目の当たりにした彼らは、その驚きと感動を日記や紀行文に残しています。もちろん博覧会の会場にも足を運んでいます。日記の簡潔な書き振りからも、異国で過ごす彼らの様子が生き生きと伝わってきます。

◆3) 「尾蠅欧行漫録」『遣外使節日記纂輯. 第2』
市川渡著 大塚武松編 日本史籍協会 昭和4年4月
【210.593-O927k】
副使の松平石見守康直の家来、市川渡による日記。たとえば、4月2日(旧暦)にイギリスに上陸するや翌3日には博覧会初日のセレモニーに滑り込むなど、ずいぶんな強行軍がうかがわれる。さすがに疲れたのか、4月4日は「今日終日在寓」とある。表題の「尾蝿」とは、馬の尻尾に蝿がついていくように使節団に同行した、という謙遜。
※複製:『遣外使節日記纂輯. 2』日本史籍協会編 東京大学出版会 1987.6 【GB391-185】
◆4) 「欧行日記」『遣外使節日記纂輯. 第3』
淵辺徳蔵著 大塚武松編 日本史籍協会 昭和5年1月
【210.593-O927k】
同じく使節団のメンバーだった淵辺徳蔵の日記。ロンドン滞在中は博覧会会場のほかイギリス各地を訪れ、特に兵器工場や機械工場に関する記述が詳しい。エキセルビション(ママexhibition)のことを「展観場」と記述している。日本の展示品については、「全く骨董店の如く雑具を集しなれハ見ニたえず」と嘆いている。
※複製:『遣外使節日記纂輯. 3』日本史籍協会編 東京大学出版会 1987.6【GB391-185】

■博覧会は、使節団のような上層階級だけの関心事ではありませんでした。多くの庶民もまだ見ぬ異国の文明には大きな関心を持っていたようです。

◆5) 『西洋道中膝栗毛』初、2編 [近代]
第一冊
第二冊

小林鉄次郎編 明治16
【YDM91773】
仮名垣魯文が著したパロディ小説。原典は十辺舎一九のベストセラー『東海道中膝栗毛』。弥次郎兵衛と喜多八の子孫が世界を舞台に繰り広げる珍道中。旅の最後にイギリスに立ち寄り、博覧会場にも足を伸ばしている(展示箇所)。
◇壁面1) Scientific record of the London Great Exhibition of 1862.[複製]
London1862
【49-23】

 

◇壁面2) Masterpieces of industrial art & sculpture at the International exhibition,1862 [複製]
selected and described by J.B. Waring ; chromo-lithographed by and under the direction of W.R. Tymms, A. Warren, and G. Macculloch ; from photographs supplied by the London photographic and stereoscopic company, taken exclusively for this work by Stephen Thompson. LondonDay & Son1863.
【YP51-A226】
出品物の総合カタログとそれらの解説がまとめられている大型本。オールコックが収集し出品した日本の美術品も収録されている。
◇壁面3) The Illustrated London News. 1862.5.24,1862.9.20[複製]
Reprint Ed. Kashiwashobo Pub. Co. 1997
【Z99-973】
◇壁面4) 『バタヒヤ新聞』巻1 1861年8月31日(文久元年7月26日)[複製]
老皀館 1862
【YD-WB43-82】
日本で「新聞」と名のつく初めてのもの。形態は今で言う新聞とは違って、和紙を糸で綴じた冊子型であった。海外の情報を手に入れるため、ジャワのバタビヤにあったオランダ総督府の政府機関紙『Javasche Courant』を、幕府の蕃書調所が翻訳した。英吉利の項で、「明年将に全世界品物の見物場を開かんとするの証拠は欧羅巴州の諸方より種々の産物を運搬すればなり」と万国博覧会の開催を伝えている。

 

2.パリ万国博覧会 開催年:1867(慶応3)年

第二章では、日本が初めて公式に参加した万博をご紹介します。幕末の混乱期のさなか、幕府はフランス皇帝ナポレオン三世からパリ万国博覧会への参加の招請をうけました。
当初は難色を示していましたが、フランス公使レオン・ロッシュの勧めもあり、参加を決定します。これが、初めて日本が展示物を出品した万国博覧会とされています。

■世界の科学技術の集大成の場である博覧会には、各国から様々な品物が出品されました。

◆6) Catalogue general : Exposition universelle de 1867 a Paris.
Paris E. Dentu [1867?]-
【D7-A33】
10のグループ(美術、家具、農業、機械等)、国ごとに参加者と出品物が記録されているカタログ。 折りたたみの会場図も付いている。参加国の展示面積、出品物の一覧表にはJaponの名があるが、なぜか出品物は掲載されていない。 Liou-Kiou(琉球)の頁には楽器や磁器等が出品されたことが記されている。
◆7) Reports of the United States commissioners to the Paris Universal Exposition,1867
edited by William P. Blake. Washington Government Printing Office 1870.
【48-72】
アメリカ合衆国の報告書。展示本は6巻組のうちの第1巻で、概説、インデックスに続いて美術品、測量・通貨部門等の解説が収録されている。 測量・通貨部門の日本の項には、石や金属を計る道具として矩差しが載っており、通貨は大判小判などが、材料の金属、形、フラン換算額とともに紹介されている。

■日本からは幕府のほか、薩摩藩が「琉球王薩摩太守政府」と称して参加し、佐賀藩も独自に展示場を設けました。 展示物は、陶器や漆器など日本を代表する工芸品のほか、日本の風物を紹介する書籍、さらには英和辞書など多岐にわたりました。 日本的なエキゾチズムが感じられるこれらの品々は、19世紀末のヨーロッパ大陸を席巻するジャポニズムのさきがけとなりました。

◇壁面5) L'Exposition universelle de 1867:illustree:publication internationale autorisee par la Commission imperiale[複製]
redacteur en chef, Fr. Ducuing Paris, Dentu Administration [1867?]
【YP51-A223】
博覧会のために刊行された新聞。日本の展示物に関する記事も多く載っている。

■万国博覧会といえば、世界各国がその面子をかけて最新の文明を競って誇示する場でした。最先端の科学と芸術に彩られた博覧会の表の顔はずいぶん華やかに見えます。 しかし、その舞台裏は、華やかさとはかけ離れた、権謀術数の外交の現場でもありました。日本もその例外ではなく、幕末期の混乱がパリの街にも飛び火します。幕府と薩摩藩などとの対立が表面化したのです。

◆8) 『徳川昭武滞欧記録 第1至3』
大塚武松編 日本史籍協会 昭和7
【64-262】
博覧会への展示物出品にかかる契約の締結等からその日の昼飯代まで、ヨーロッパ滞在中の詳細な記録類、博覧会に関する一件書類が整理・分類されている。滞在費その他の資金の工面をはじめとする事務処理の記録の裏には、使節団の人々の苦労がしのばれる。
※複製:『徳川昭武滞欧記録』日本史籍協会編 東京大学出版会 1973 【GB391-64】
◆9) 「万国博覧会記念メダルと遣仏使節一行」
『新旧時代』1年第10冊(大正14年12月)
【雑19-153】
明治文化研究会の機関紙。幕府の使節団一行とパリ万博の記念メダルの写真が掲載されている。写真中央に座っているのが当時わずか14歳の徳川民部大輔昭武。 解説によると記念メダルは、ナポレオン三世から瑞穂屋卯三郎へ送られたもので、銀製直径一寸六分五厘。メダルの裏面にはOUSABOUROとある。卯三郎は会場に日本茶屋を設け、その評判は上々だったようである。
※複製:『新旧時代』広文庫 1972 【Z8-956】
◆10) 「航西日記」『渋沢栄一滞仏日記』
大塚武松編 日本史籍協会 昭和3
【64-247】
実務家としての能力を高く買われていた渋沢栄一は、幕府の使節団の会計全般を受け持っていた。 事務的な記述が淡々と述べられる中にあって、博覧会場に関する記述は、詳しく描かれており、中でも日本の展示場に設置した茶屋の様子には関心を示している。
※「航西日記」『青淵先生六十年史』[近代]竜門社 明治33年2月
【YDM6891】にも収載あり
◆11) 『幕末外交談』[近代]
田辺太一(蓮舟)著 冨山房 明治31.6
【YDM29593】
幕府の使節団に随行した田辺太一の回想録。かねてから幕府を出し抜こうと考えていた薩摩藩は、この場を利用して、徳川氏と同じく日本において天皇の下に同位に列される独立国であるかのごとく振舞うことを狙っていた。薩摩藩は独自に勲章を製造し各方面に配るなどしたため、西洋諸国の間に、日本には主権国家が複数あるとの誤解を与え、幕府の立場に疑問を持つものも現れた。こうして幕府の使節団と薩摩藩との間に摩擦が起こり、関係者はその調整に苦慮したとある。
※複製:『幕末外交談』田辺太一〔著〕 東京大学出版会 1976.5 【GB383-35】
◆12) 『鍋島直正公伝 第六編』
中野礼四郎編 侯爵鍋島家編纂所 大正9年8月
【383-97】
パリ万国博覧会の報告。薩摩藩は、幕府の権威を貶め、自藩の立場をアピールすることを狙っていた。 幕府から抗議を受けても、どこ吹く風と受け流す薩摩藩の対応ぶりを聞き、日ごろから幕府を快く思っていなかった鍋島直正は、喜びを表したそうである。 
※複製:『鍋島直正公伝』久米邦武編述 中野礼四郎校訂 西日本文化協会 1973 【GK89-17】

 

万博豆知識:訳語「博覧会」の誕生

ロンドン万国博覧会を見聞した福沢諭吉をはじめとする人々の当時の記録を見ると、「Exhibition」をもっぱら「展観場」と呼んでいることがわかります。では、「博覧会」の訳語が生まれたのはいつのことでしょう。この訳語を考案したのは、栗本鋤雲とする説と、福沢諭吉がその著書『西洋事情』で紹介したものが最初とする説があります。 当時の文献『徳川昭武滞欧記録 第1至3』を見ると、慶応元年の文書にはすでに「博覧会」の文字が見えます。この頃は、「博覧会」と「展観場」の二通りの訳語が使われていたらしく、次第に「博覧会」のほうが使われるようになった様子が窺われます。

◆13) 『匏菴遺稿』
栗本鋤雲著 裳華書房 1900
【YDM102530】
フランス語に堪能であった幕府の栗本瀬兵衛(鋤雲)が、エキスポジションを「博覧会」と訳したという。 フランス公使レオン・ロッシュがパリ万博への参加依頼に訪ねてきた折、エキスポジションの和訳を尋ねられ、内容を聞いた鋤雲は薬品会を思い浮かべ「稍や貴邦此會に似たるあり、 然ればエキスポジションなる者は、或は博覽會の字を以て譯したらば其近似を得んかと答へしに、魯節和春〔ロッシュとフランス人通訳メルメ・ド・カション〕共に之を然りとし、終に博覽会を以て此擧を目するに至れり」とその経緯が本書に述べられている。
◆14) 『西洋事情』初編 巻之1 [近代]
福沢諭吉著 慶応義塾出版局 明治3-5
【YDM22029】
「西洋ノ大都会ニハ数年毎二産物ノ大会ヲ設ケ世界中二布告シテ各々其国ノ名産便利ノ器械、古物奇品ヲ集メ万国ノ人二示スコトアリ之ヲ博覧会ト称ス・・・」。 この項目が書かれた「初編」の刊行は慶応2年。当時としては破格の25万部を売り上げたとされている。

※〔参考・出典〕

◆15) 『明治事物起源』[近代]
石井研堂著 橋南堂 明治41.1
【YDM102026】
第五類 実業 博覧会の始

 

3.ウィーン万国博覧会 開催年:1873(明治6)年

日本政府が初めて公式に万国博覧会に参加したのは、ウィーン万国博覧会とされています。この博覧会への参加が日本に持ちかけられたのは、 1871(明治4)年のことでした。かねてから日本製品の輸出の増大と、海外技術の摂取を意図していた政府は、国を挙げて取り組みました。

◆16) Guide and album souvenir of the Universal Exhibition, 1873.
Vienna The Authors [18--?]
【60-251】
ウィーンとその近郊、万博観光のためのポケットサイズガイドブック。万博会場、環状道路、オペラ劇場、シュテファン大聖堂などの名所が版画で描かれている。 末尾には万博会場を含むウィーン市街の地図があり、宿屋、レストラン、旅行用品店等の広告も載っている。
◆17) Situationsplan der Weltausstellung in Wien 1872.
Wien [A. Hocholzer 18--?]
【70-154】
一枚物の地図。万博の会場図と版画の俯瞰図(◇壁面6)が裏表に印刷されている。
◆18) Gerold's ground plan of the Vienna universal exhibition, 1873.
Vienna Charles Gerold 1873.
【70-188】
こちらも一枚物の地図。会場地図(◇壁面7)がカラーで描かれている。国別展示場は、メルカトール図法に従って配置がなされるように設計された。日本会場は東側、中国、シャムなどの近くにある。
◆19) Kunstgewerbliche Musterbilder aus der wiener Weltausstellung.
Stuttgart [s.n.] 1874.
【B-112】
機織物、陶磁器、木工家具などの美術工芸品を中心とする出品物の画集。

■博覧会場での日本の美術工芸品をはじめとする展示物は評判を得、ヨーロッパに大きなインパクトを残しました。 このとき派遣した海外伝習生は、最先端の技術を日本にもたらし、のちの産業の発展に多大な貢献をしました。

◆20) 『特命全権大使米欧回覧実記第5編欧羅巴大洲ノ部 下 [近代]
久米邦武編 博聞社 明治11
【YDM22194】
明治4年11月から632日間をかけて、欧米諸国を訪問して回った「岩倉使節団」の記録。岩倉具視以下約50名の使節団は、欧米の進んだ文明を視察し、日本に持ち帰ることを目的としていた。ヨーロッパ訪問中、ウィーンにも立ち寄り万国博覧会も見ている。各国の出品物、展示の様子を詳述しつつ、日本の出品物が評判を得た様子も記録している。
※複製:『特命全権大使米欧回覧実記』久米邦武編 宗高書房 1975 【A99-Z-72】

◆21) 『昨夢録』
平山成信著 平山成信 大正14
【15-429】
談話筆記、渡航日記、博覧会場その他の見聞録などからなり、私家版として知人に配られたもの。表紙にあしらわれているのは平山家の家紋。 日本建築が珍しくなかなかの繁盛であったこと、開場前、工事中に通りかかったエリザベート王妃が大工の巧みな技に驚き鉋屑を持ち帰ったこと、博覧会のメンバーで料理の上手なものが岩倉使節団に日本料理を用意したことなどが書かれている。
◆22) 『海外博覧会本邦参同史料』第一輯
博覧会倶楽部編 昭和3-9
【608-113】
時を経るにつれて、博覧会に関する資料、報告書の散逸が相次いだことを憂慮して、博覧会の記録類を後世に残すために、昭和3年から本書の編纂が開始された。 来観者に記念品の茶や煙草を配ったり、扇や団扇を一週間で数千本売り尽くすなど、活気あふれる会場の様子がうかがわれる。
◆23) 「子育の巻」『博覧会見聞録別記』[近代]
近藤真琴著 有隣堂 〔明治19〕
【YDM204346】
海事教育の先駆者として知られる近藤真琴は、明治6年のウィーン万国博覧会に一級事務官として随員を命じられた。「童子館」という特別パビリオンに感銘を受け、帰国後それをまとめたのが「子育の巻」である。 フレーベルのキンデルガルデン(「童子園」)や絵入りで各国の抱っこの仕方が紹介されている。
「子育の巻」『博覧会見聞録別記』

◆24) 『澳国博覧会参同記要』[近代] 田中芳男、平山成信編 森山春雍 明治30.8 【YDM42151】 ウィーン万国博覧会の報告書類を整理し、ヨーロッパから学び取った先端の技術を国内に広め、産業の発展に寄与するため編さんされた。 博覧会最終日の日本の会場での様子も詳述しており、夜になると日本の音楽を盛んに流し、これが終わると駆けつけた来観者が祝いの歌を歌ったという。大盛況のうちに博覧会の幕を閉じた様子が描かれている。
◇壁面6) Situationsplan der Weltausstellung in Wien 1872.[複製]
Wien [A. Hocholzer 18--?]
【70-154】


◇壁面7) Gerold's ground plan of the Vienna universal exhibition, 1873.[複製]
Vienna Charles Gerold1873.
【70-188】

◇壁面8. 『東京日日新聞』第395号 明治6年6月12日[複製]
【YB-6】
◇壁面9) 「子育の巻」『博覧会見聞録別記』[近代] [複製]
近藤真琴著 有隣堂 〔明治19〕
【YDM204346】

 

※1873(明治6)年のウィーン万国博覧会については、国立国会図書館ホームページのギャラリー「世界の中のニッポン」に掲載されている『ウィーン万国博覧会』もどうぞご覧ください。

 

参考文献

全体に関わるもの
1) 『図説万国博覧会史 : 1851-1942』
吉田光邦編 思文閣出版 1985.3
【D7-66】
2) 『万国博覧会の研究』
吉田光邦編 思文閣出版 1986.2
【D7-71】
3) 『博覧会の政治学 : まなざしの近代』
吉見俊哉著 中央公論社 1992.9
【D7-E89】
4) 『国際博覧会歴史事典』
平野繁臣著 内山工房 1999.7
【D7-G26】
第一章に関わるもの
5) 『文久二年のヨーロッパ報告』
宮永孝著 新潮社 1989.6
【GB383-E14】
6) 『オールコックの江戸 : 初代英国公使が見た幕末日本』
佐野真由子著 中央公論新社 2003.8
【GK412-H3】
第二章に関わるもの
7) 『花のパリへ少年使節 : 慶応三年パリ万国博奮闘記』
高橋邦太郎著 三修社 1979.10
【D7-52】
8) 『徳川昭武 : 万博殿様一代記』
須見裕著 中央公論社 1984.12
【GK138-129】
第三章に関わるもの
9) 「明治前期に於ける幼児教育の普及と啓蒙−内国勧業博覧会を中心とする近藤真琴、手島精一の足跡を中心として−」『保育学研究』第33巻第2号
是沢博昭 1995 pp.45-52
【Z41-42】
10) 『ウィーン万国博の研究』
【D7-G49】
大阪問題研究班〔編〕、角山幸洋〔著〕 関西大学経済・政治研 究所 1999.3
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