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第143回常設展示 日本の「美しき時代」 -大正時代に生まれたもの-

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第143回常設展示 日本の「美しき時代」 -大正時代に生まれたもの-

キーワード:大正時代;大衆文化;大衆娯楽;女性教育  カテゴリ:歴史・地理・哲学・宗教     件名(NDLSH):日本--文化--歴史--大正時代  分類(NDC):210.69

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平成18年5月18日(木)〜7月18日(火)

 

開業当時の東京駅2.jpg
◇開業当時の東京駅◇
(「写真通信 : 教育資料」第9号 【YD5-H-408-117】)


はじめに

日本におけるタクシーの起源が大正時代にさかのぼることを知っている人は、意外に少ないのではないでしょうか。
明治と昭和という二つの大きな時代の間に挟まれ、わずか15年と短命に終わった大正時代。文明開化の明治や敗戦からの復興を成し遂げた昭和に比べて、どこかはかない印象を持たれることも少なくないようです。
しかしながら、冒頭のタクシーの例に見るように、ひとたび大正時代の大衆文化に目を向ければ、その発展はめざましく、現代の生活風景を彩る数多くの事象が、実はこの時代に生み出されています。
第1章では、大衆の実生活という観点から当時を振り返ります。明治時代には一握りの人にしか享受されていなかった西洋のモダンな生活文化が、次第に庶民の手に届くものになっていったことが分かります。タクシーの登場で自動車が身近な乗物となり、百貨店は大衆化していくことで消費生活をリードしました。また、郊外型住宅や集合住宅など、現在の住生活の原型が生まれたのもこの時代です。快適追求、大量消費を指向する現代生活の源流は大正時代にあるのかもしれません。
第2章では、当時の文化芸術的側面をご紹介します。私たちが日ごろ親しんでいる文化活動には、当時の大衆文化に根ざすものが数多く見られます。今日において放送番組の視聴は最も身近な娯楽のひとつですが、その原点であるラジオ放送が開始されたのもこの時代です。その他、宝塚歌劇団の結成や築地小劇場の落成など、例を挙げればきりがありません。
第3章では、社会的・教育的側面に焦点を当てます。普通選挙運動、教育自由運動など、社会の枠組みの形成を大きく左右するような運動の多くが、当時に端を発しています。また、婦人参政権の獲得を目指した新婦人協会**の発足など、女性の自立においても節目となった時代でした。
今回は、その短さやはかない印象とは裏腹に、大衆のパワーにあふれ、様々な事象が生まれ育っていった大正時代をご紹介します。

* 一般的に「美しき時代」とは、「ベル・エポック」(フランス語で“よき時代”の意味。19世紀末から第一次世界大戦頃まで、パリを中心とする近代都市空間で文化と経済の繁栄が謳歌された時代。)を指します。大正時代の華麗で享楽的な雰囲気を少しでも感じ取っていただければと思い、このようなタイトルにいたしました。

**国立国会図書館では、婦選運動に大きな役割を果たした市川房枝の政治談話録音を今年の1月から公開しています。

資料をご覧になる場合のご注意

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  • 英字順(A.B.C・・・)の資料は、当館所蔵資料の複製物を壁面に展示してあります。
  • 一部の資料は資料保存のため、会期中およそ2週間ごとにページ替えをいたします。
    ■ a期:5月18日〜6月1日
    ■ b期:6月2日〜6月15日
    ■ c期:6月16日〜6月29日
    ■ d期:6月30日〜7月18日
  • サムネイル画像をクリックすると大きい画像をご覧いただけます。

第1章 「モダン」で「文化」的な市民生活

日本橋・銀座のデパートへタクシーで乗り付けてお買い物。東京駅から電車に乗って帰る我が家は都内の最新設備を誇る高層マンション、はたまた郊外の瀟洒なマイホーム。今でもごく普通にありそうな「ちょっといい暮し」だが、大正時代にその原型がある。明治時代には富裕層と庶民との格差は途方もなく大きく、「文明開化」の恩恵に浴した西洋式の生活はまだまだごく一部に限られた夢のような話であった。しかし、両者の中間的な存在としての「サラリーマン」が大正時代には急激に増えてくることにより、西洋式の商品やサービスの裾野も大幅に広がった。交通、消費、メディア、住宅など、生活の様々な側面において「文化」「モダン」などの言葉で形容される新しいスタイルが展開した。その中には現代に通ずるものも数多く見られる。本章では、市民の勃興しつつあった大正時代に芽生えた「モダン」な生活の一端をご覧いただきたい。

タクシー営業開始

日本最初のタクシー会社「タクシー自働車株式会社」が営業を開始したのは、1912 (大正元)年8月15日のことであった。自動車による客運事業は、現在のハイヤーに相当する貸自動車業が先に営業を開始していたが、料金も高く(大企業の大卒初任給が30〜40円くらいであった当時、半日で7円50銭から)、さらに運転手へのチップも必要だったため庶民には利用しがたい交通手段だった。そこで、料金が明朗で手軽に利用できるタクシー事業が欧米で発展してきていることに眼を着けた。目論見どおり急成長を遂げ、当初6台で開始されたタクシー事業は、1926 (大正15) 年には東京だけで3400台にまで拡大した。大正時代末期には大阪で一定区間を1円均一で走る「円タク」が登場し、当初は庶民に縁のなかった自動車が、次第に身近な乗物として発展していく。

1) タクシー自動車の計画と営業の知識 / 重森文彦著
大阪 : 文友堂書店, 1926
【547-215】
※マイクロフィッシュ【YD5-H-547-215】でのご利用になります。
A) 同上 [複製]
タクシー事業の経営法についてのハウツー本。「其乘客の大半は必ずしも一部の階級に屬する者のみでなくタクシー自動車の需要が如何に民衆化され居るか」と、一般市民の足となりつつある様を述べている。当時は「円タク」が東京に進出を始めた時期であり、本書においても「哩制度(走行距離に応じて料金を払う、いわゆるメーター式)」と「均一制度(一定区間ならば均一料金)」の両方が解説されている。著者は均一制度について「タクシーの乘客も安い料金の處に多く集る譯で此の均一制度を採用する營業者は次第に�加して營業の競爭は何時までも續くのである」と懸念しているが、1927 (昭和2)年に東京で均一料金が正式に認可されて以降、その予言はまさに的中することになる。[パネルA]は上記資料に掲載された当時のタクシーメーター。
タクシー自動車の計画と営業の知識.jpg
(パネルA)
三越日本橋本店の新館開店

呉服店は明治後期に座売り式から陳列式に店舗形態を改めるなど、経営の近代化を進めて、次第に百貨店への道を歩んでいく。三越が1914 (大正3) 年に開業した日本橋本店新館は、そのような潮流を象徴する店舗であった。ルネサンス様式の5階建て鉄筋造で、常設のエレベーターなどの最新設備や屋上庭園が設置され、広大な店舗を生かして衣服から日用品まで多種多様に扱う消費の殿堂が誕生した。それまで華族や大資本家などを顧客としてきた百貨店は、大正時代になると客層を広げるべく日用品なども販売し、また広告にも力を入れて大衆化の路線をとるようになる。一世を風靡した「今日は帝劇、明日は三越」のキャッチコピーのとおり、観劇に買い物にと街へ繰り出す女性たちの姿は、現代へと続く大量消費型社会の到来を感じさせる。

B) 大三越歴史写真帖 / 大三越歴史写真帖刊行会編
東京 : 大三越歴史写真帖刊会, 1932 [複製]
【430-7】
三越の屋号がまだ「越後屋」だった江戸時代から昭和初期にかけての写真や絵画を収録した写真集。[パネルB]は落成当時の新館の写真および建設概要。エスカレーターやエレベーター、スプリンクラーなどの最新設備が揃っていたが、当時はまだ下足を玄関で預けて、スリッパに履き替えてからの入店という方式であった。
三越落成当時の新館.jpg
落成当時の新館の写真(パネルB)

三越開業当時の中央広間.jpg
開業当時の中央広間
2・3) 三越 / 三越編
東京 : 三越
【雑23-23イ】
「今日は帝劇…」でも知られるように、三越は広告戦略を重視していた。企業PR誌も今では珍しくないが、三越はいち早く取り入れており、1899 (明治32) 年に『花ごろも』を創刊している。その後、1903 (明治36) 年に月刊の『時好』(展示資料『三越』の前身*)となって、PR誌は単なる百貨店の宣伝を超え、流行の発信に重点を置くようになる。取扱商品や催事などの宣伝のみならず、巷の流行の紹介記事や文芸作品、論文も掲載するなど盛りだくさんの内容である。表紙はグラフィックデザインの先駆者として知られ、のちに多摩帝国美術学校(現在の多摩美術大学)校長に就任した杉浦非水が主として手がけ、竹久夢二や高畠華宵などの口絵が載ることもあった。[資料2](c期)は新館の最新設備を紹介した写真で、上が金銭運送機(いわゆるシューター)で下がエレベーターである。

(*『時好』から『みつこしタイムス』さらに『三越』へと改題した。)

※当資料は資料保存のために会期途中でページ替えをいたします。各期間における展示内容は以下の通りです。

■a期 2. 4巻10号 (大正3年10月) 表紙 / 杉浦非水画
  3. 15巻10号 (大正14年10月) 野遊 / 竹久夢二画
b期 2. 4巻10号 (大正3年10月) 文房具その他:三越取扱商品の案内
  3. 15巻10号 (大正14年10月) 閑話 / 高畠華宵画
■c期 2. 4巻9号 (大正3年9月) 口絵:三越新館の諸設備
  3. 15巻6号 (大正14年6月) 表紙 / 杉浦非水画
■d期 2. 4巻9号 (大正3年9月) 變つた金銀時計:三越取扱商品の案内
  3. 15巻6号 (大正14年6月) 涼しき装ひ / 竹久夢二画

野遊び.jpg
野遊び

涼しき装ひ.jpg
涼しき装ひ

東京駅開業

新橋〜横浜間に日本最初の鉄道が開通して以来、日本の鉄道網は着々と延伸していった。1889 (明治22)年には新橋〜神戸間の東海道線が全線開通し、さらに1891 (明治24)年には上野〜青森間も開通した。同じ頃、東京市区改正計画の確立にともない、首都の中心部に大規模な停車場を建設し、東海道・東北両方面の幹線を接続させる計画が提唱された。この中央停車場として設定された東京駅は、1908 (明治41) 年に着工し、1914 (大正3) 年12月18日落成、同20日に開業した。辰野金吾と葛西万司により設計された東京駅駅舎は、鉄筋レンガ造三階建ての壮麗なもので、6年の工期と280万円の工費が投ぜられた。現在でも東海道・東北・上越各方面の新幹線が発着する一大ターミナルであり、首都東京の玄関として日本の鉄道交通の中枢を担っている。

C) 東京駅開業祝賀会及凱旋将軍歓迎会報告書 / 東京駅開業祝賀会及凱旋将軍歓迎会編
東京 : 東京駅開業祝賀会及凱旋将軍歓迎会, 1915 [複製]
【326-74】
※マイクロフィッシュ【YD5-H-326-74】でのご利用になります。
1914 (大正3) 年に行われた東京駅開業式の報告書。当日の横浜発の一番列車で、第一次世界大戦における青島(中国山東省)要塞攻略司令官であった神尾光臣中将らが皇居に参内する凱旋式も兼ねていた。花火が揚げられたりイルミネーションが設置されたりと盛り上がった開業式だったが、当日東京駅を発車した祝賀列車がパンタグラフの整備不良により途中で止まってしまうハプニングもあった。
東京駅開業式当日の様子.jpg
開業式当日の様子

4) 東京駅関係工事記録類集 / 日本国有鉄道東京第一工事局編
東京 : 日本国有鉄道東京第一工事局, 1974
【NA161-44】
東京駅建設工事が着工された1908 (明治41) 年から1974 (昭和49) 年までの、東京駅の諸工事に関する記録を収録しており、当時の図面などが豊富に掲載されている。建設当初は、まだ八重洲口は設置していなかった。また、丸の内口南北ドームは建設当初には円形ドームであったが、東京大空襲によって破損、1947 (昭和22) 年に修復したものの、予算の都合により現在目にする八角形のドームとなった。現在、戦災で失われた円形ドームや三階部分の復元計画が進んでいる。
開業当時の東京駅2.jpg
開業当時の東京駅(「写真通信 : 教育資料」第9号 【YD5-H-408-117】)
「文化村」と文化住宅

文明開化によって西洋式の生活が輸入される中、住生活は一部の富裕層を除いて江戸時代と大差ない状態が続いていた。しかし、大正に入り勃興してきたサラリーマン階層をターゲットとして、洋風の建築様式や内装を一部に取り入れたモダンな住宅が提案され、「文化住宅」と呼び名がつけられた。
1922 (大正11) 年3月から7月にかけて上野で開催された平和記念東京博覧会に、14軒の文化住宅を建てた「文化村」が展示された。いわば住宅展示場であり、展示の住宅は販売もされた。この「文化村」は好評を博し、文化住宅が広く注目されていくようになる。当時盛んに大都市郊外地域が開発され(高級住宅地として知られる田園調布の開発が始まったのも大正時代である)、そこに和洋折衷の文化住宅が次々に建設された。この文化住宅は、その後の日本における住宅のスタイルにも大きな影響を与えた。

5) 文化村住宅設計図説 : 平和記念東京博覧会出品 / 高橋仁編
東京 : 鈴木書店, 1922
【507-44】
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平和記念東京博覧会に展示された「文化村」の解説書。各住宅の設計図や写真、説明が掲載されている。文化村の村長(責任者)である大熊喜邦は、国会議事堂設計スタッフの一人である。「文化村」では住宅出品の前提条件を「價格低廉にして現代文化に適する實用的簡易住宅」としており、具体的には「坪単價200円」「椅子式の居間・客間・食堂」などと設定している。そのような条件のもと、各住宅は「近代趣味を象徴せる米國式建築」「腰掛け式の一般向簡易小住宅」など、様々なコンセプトで設計された。それまで富裕層のみに許されていた西洋式の住生活が、次第に庶民の手にも近づき始めた状況を物語っている。
D) 大正十一年九月住宅改造博覧会出品住宅図集 / 市川喜作編
大阪 : 日本建築協会,1922 [複製]
【419-151】
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平和記念東京博覧会に「文化村」が出品された直後の1922 (大正11) 年9月、大阪の箕面で住宅改造博覧会が開催された。ここには25棟の住宅が展示され、「文化村」同様に販売もされた。「文化村」では買い手のついた住宅を博覧会終了後に移築したが、こちらは博覧会場が展示終了後そのまま住宅地に移行した。分譲された住宅の一部は現存している。
[パネルD]の左は博覧会場の案内図、右は展示された住宅の図面の一つである。
同潤会青山アパートメント

関東大震災の復興のために設立された財団法人同潤会は、住宅供給事業が特に著名であり、日本最初の公的な住宅供給団体とみなされている。同潤会は「住宅緩和に市内にアパートメント、郊外に田園都市」(『報知新聞』大正13年5月4日の記事)という方針で震災後の近代的な住宅供給を進めていったが、その中でも特に鉄筋コンクリート造のモダンなアパートメントは好評を博し、「同潤会アパート」として建築史上に名を残している。ここで紹介する青山アパートメントは、同潤会アパートの中でも二番目に早い1925(大正14)年11月に着工し、1926(大正15)年9月に中之郷アパートメントとともに貸付第一陣を切った最古参アパートメントだが、その建築物はつい最近まで表参道に残されていた。現在では再開発され、新たな商業・住宅施設として注目されている。

6) 建築写真類聚 第6期第6回
東京 : 洪洋社, 1927
【390-29】
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当時の最新建築の写真集。1920(大正9)年から1940(昭和15)年にかけて様々な種類が発行された。当該資料は「新興アパートメント」と副題にあり、同潤会渋谷アパートメントおよび青山アパートメントを特集している。建設からまださほど時を経ていない両アパートメントの写真を掲載し、冒頭でその仕様について説明している。
「軍艦島」のアパートメント

長崎市沖に浮かぶ端島は周囲約1200m、面積約6.3haの小島ながら、炭鉱の島として繁栄しました。1916(大正5)年に日本初となる鉄筋コンクリート構造のアパートメントが建設されました。
小さな島に高層アパート群が林立する姿が軍艦に似ており、「軍艦島」の異名で知られます。炭鉱の閉鎖とともにアパートも廃墟化し崩壊が進んでいますが、日本の近代化を物語る遺産として保護する動きもあります。 (参考) 軍艦島実測調査資料集 : 大正・昭和初期の近代建築群の実証的研究 / 阿久井喜孝,滋賀秀實編著 追補版 東京 : 東京電機大学出版局 ,2005 【KA81-H111】

第2章 多様化する大衆娯楽

生活スタイルへの関心が生まれ、大衆レベルで生活の質的向上への要求が高まりつつあった大正時代。その向上は、単に衣食住にとどまるものではなかった。より豊かで変化に富んだ生活を求める意識から、趣味や遊びを日常生活の中に取り入れて楽しむという志向が生まれたのもこの頃のことである。娯楽活動をはじめとする大衆の文化活動は、日常化するとともに多様化し、次々と新たな側面を生み出しながら近代の生活文化を鮮やかに彩っていくこととなる。
本章では、大衆娯楽の動向を探りつつ、当時から現代に続く大衆の文化活動をご紹介し、大正という時代の文化芸術的側面をご覧いただきたいと思う。

大衆娯楽の動向

まずはこの時代の娯楽の傾向について確認しておきたい。近代化の一途を辿る社会において、大衆はどのようなことに楽しみを見出していたのだろうか。当時の資料からは、「芝居」「寄席」「活動写真」「歌舞音曲」等、多種多様の娯楽が確認できるが、中でも「活動写真(映画)」の人気は群を抜いており、大衆娯楽の中心的存在となっていた。

(参考) 余暇生活の研究 / 大阪市社会部生活課編
京都 : 弘文堂, 1923 (労働調査報告No.19)
【365.7-O776y】
民衆の余暇時間使用状況を大阪市が調査・分析した報告資料。娯楽種別ごとの年間興業回数や入場者数の統計などには、当時の大衆娯楽の動向がよく表れている。活動写真の圧倒的優位が数値で示され、分析文中にも「近時民衆娯樂の最も重要なるもの」等の記述が見られる。また、「洋楽」等、娯楽種別の記載からも西洋化・近代化の進む当時の大衆娯楽の傾向がうかがえる。
◇「大阪市における常設民主娯楽施設の入場者数(大正10年)」(上記資料を参考に作成した表)
7) キネマ旬報
東京 : キネマ旬報社
【Z11-158】
近着外国映画の紹介や国内映画界の動向を報じる記事など、内容は多彩。各作品のあらすじや寸評なども掲載されており、新作広報等においても重要な役割も担っていたであろうことがうかがえる。流行作品なども一見してよく分かる内容となっており、当時の映画事情を探る上で欠かせない資料である。
※ 当資料は資料保存のために会期途中でページ替えをいたします。
■a期 112号(大正11年9月) ■b期 128号(大正12年3月)
■c期 136号(大正12年6月) ■d期

141号(大正12年8月)

 

演芸の新境地

百貨店や大規模娯楽施設などが各所に進出し、集客のために様々な催しが行われる中、三越百貨店の少年音楽隊や宝塚唱歌隊(後の宝塚少女歌劇団)など、演芸にも新しいスタイルが誕生した。また、新劇運動の拠点となる築地小劇場が開場したのもこの頃である。

8) 歌劇 創刊号(大正7年8月) / 歌劇発行所編 復刻版
東京 : 雄松堂書店, 1997-1999 (原誌の出版者:阪神急行電鉄株式会社)
【Z11-B524】
宝塚歌劇団の結成は1913(大正2)年7月(結成当初の名称は宝塚唱歌隊)。もともとは宝塚新温泉(鉄道会社*の乗客増加策の一環として沿線に建設された大規模娯楽施設)の施設イベントとして考案されたものだが、翌1914(大正3)年4月の第一回公演の成功以来、解散・再編・劇場閉鎖・再開などを経ながらも現在まで続いてきた。
展示資料は劇団機関紙「歌劇」(復刻版)。興行情報のほか、文学・音楽・演劇に関する研究的な記事も多く掲載されており、総合芸術雑誌的な内容となっている。
*箕面有馬電気軌道株式会社。略称:箕面有馬電車。現在の阪急電鉄の前身。)
9) 築地小劇場の時代 : その苦闘と抵抗と / 吉田兼吉著
東京 : 八重岳書房, 1971
【KD521-15】
築地小劇場は1924(大正13)年6月13日に落成。開場は翌14日。小山内薫、土方与志らによって設立され、新劇運動の拠点となった。
展示資料は、築地劇場創立に美術部宣伝部員として関わり、以後、美術や舞台装置担当として活躍した著者が、創立当時からの劇場の歩みを一個人の視点で綴った記録。
E) 築地小劇場
東京 : 築地小劇場 [複製]
【雑35-332】
※展示は第2号(大正13年7月)の表紙、目次および次ページの演出予定
築地小劇場発行の機関誌。劇場同人の思想の発表や公演の予告、註解等を目的として、劇場の創立と同時に創刊された。(創刊号の発行は1924(大正13)年6月)
築地小劇場第2号の表紙.jpg
第2号の表紙
放送文化の幕開け

現在、テレビ・ラジオ等放送番組の視聴は最も身近な娯楽のひとつであるが、ラジオ放送の開始により放送文化が幕を開けたのもまた大正時代のことである。

10) 東京放送局沿革史
東京 : 東京放送局沿革史編纂委員, 1928
【581-19】
初のラジオ放送を実施した東京放送局の社史。
東京放送局による事実上のラジオ放送の開始は1925(大正14)年3月1日。手続き上の問題により、名目は「試験放送」とされた。逓信省の許可を得て仮放送が開始されたのは21日後の3月22日のことである。(本放送の開始日は同年7月12日であるが、本放送・仮放送の区別は設備上の区別であるため、仮放送が開始された3月22日を正式な放送開始日とみなし、放送記念日としている。)
続いて6月1日に大阪放送局、7月15日に名古屋放送局が放送を開始し、三局による放送体制が整ったが、放送の全国的統一の必要性から三局統合を目指す動きが表れ、わずか1年余り後、翌1926(大正15)年8月には全国統一組織体としての社団法人日本放送協会が設立され、三局の業務は全面的に移譲されることとなった。
東京高等工芸学校の一部を借りた仮放送所の正面.jpg
東京高等工芸学校の一部を借りた仮放送所の正面(「日本放送史」 【699.2-N684n】)

愛宕山の上に完成した局社.jpg
愛宕山の上に完成した局社。本放送はここから開始された(「日本放送史」 【699.2-N684n】)
F) 試験といふ名目でけふラヂオの第一聲 (朝日新聞 [マイクロフィルム] 13921号 大正14年3月1日 朝刊 )
[複製]
【YB-2】
東京放送局では1925(大正14)年3月1日を仮放送開始日と予定していたが、直前の逓信省の機器検査により、3月1日の仮放送開始は時期尚早と判断された。3月1日の放送開始は既に社会に広く知られ待望されており、出演交渉も順調で既に1週間分の番組を編成していた。東京放送局は、窮余の策として試験放送の名目での電波発射許可を申し入れ、折衝の末承認を得て、予定通りの放送が行われる運びとなった。
G) 日刊ラヂオ新聞 [マイクロフィルム] / 日刊ラヂオ新聞社編
東京 : 日刊ラヂオ新聞社, 1925-1933 [複製]
【YB-469】
※展示は第88号大正14年9月22日の紙面
東京における本放送開始の前に、放送番組の紹介を目的として創刊された業界紙。
放送プログラムの予告発表や番組紹介のみならず、ラジオの仕組みなど、技術的な内容も扱っていた。
交響楽の発展

当時のラジオ放送プログラムにも多く登場する洋楽演奏。NHK交響楽団の前身である新交響楽団の発足や“第九”(ベートーヴェンの交響曲第九番ニ短調)の初演など、西洋化・近代化の時流に乗って、大正時代、日本の交響楽は飛躍的な発展を遂げた。

11) 日露交驩交響管絃楽演奏会曲目解説
東京 : 日本交響楽協会, 1925
【特116-272】
※マイクロフィッシュ【YD5-H-特116-272】でのご利用になります。
山田耕筰・近衛秀麿らによって結成された日本交響楽協会(1924(大正13)年発足)は、東京放送局などの援助を得、数々の演奏会の成功により交響楽の発展に大きく寄与した。
日露交驩交響管絃楽演奏会は、松竹合名会社社長大谷竹次郎が発起人となって開催された演奏会で、日本側からは日本交響楽協会の38名、ロシア側からは、山田耕筰・原善次郎が現地に赴いて手配したロシア各地の楽士34名(ほかに監督とライブラリアンそれぞれ1名)が参加した。国内で初めて「本場」のものに近い演奏が聴かれたということのみならず、オーケストラ運動を加熱させるきっかけとなったという点において、この演奏会の成功は特に意義のあるものと位置づけられている。
その後、山田・近衛の対立により協会は分裂し、1926(大正15)年10月、近衛率いる新交響楽団の結成となった。
12) 薈庭楽話 / 徳川頼貞著
東京 : 春陽堂書店, 1943
【760.4-To36ウ】
日本人による“第九”演奏が未だ困難と目されていた当時(1918(大正7)年頃)、徳島でドイツ人捕虜将兵による“第九”演奏が行われているという噂を聞きつけた著者は、友人を誘ってその演奏を聴きに行ったという。
著者は、貴族院議員であり著名な音楽研究家でもあった紀伊徳川家十六代当主徳川頼貞侯爵。展示資料は留学、外遊の思い出や南葵楽堂建立の経緯などを綴った回顧録である。
13) ベートーヴェンの「第九ジュムフォニー」 / 田村寛貞訳著
東京 : 岩波書店, 1924 (音楽叢書 第3編)
【520-13-(3)】
※マイクロフィッシュ【YD5-H-520-13-(3)】でのご利用になります。
H) 同上 [複製]
日本人による“第九”全楽章の演奏は、1924(大正13)年11月29・30日の東京音楽学校第48回演奏会が最初であると言われている*
展示資料は、我が国最初の音楽学者の一人である田村寛貞による研究書。田村は本書の執筆中に初演決定の一報を受けたのだろう。その序言[パネルH]には、初演決定に寄せる感動が記されている。
*全楽章の演奏については、上記の通り1924(大正13)年11月29・30日の東京音楽学校第48回演奏会の演奏を最初とする説が有力であるが、九州帝国大学 のオーケストラによる1924(大正13)年 1月26日の第4楽章のみの演奏を日本人による初演とする説もある。また、プロによる初演ということになると1927(昭和2)年5月3日の新交響楽団による演奏を待つこととなり、「第九の初演」には諸説あるため、注意が必要である。)
I) 音楽だより (朝日新聞 [マイクロフィルム] 13827号 大正13年11月27日 朝刊)
[複製]
【YB-2】
東京音楽学校での“第九”演奏を予告する記事。「同曲の演奏は日本では之が最初の試みである」という記載が見られる。
◎ 以下、壁面パネルH、Iより一部抜粋
東京音楽学校での第九演奏予告記事1.gif
東京音楽学校での第九演奏予告記事2.gif

第3章 女性と教育

大正時代は、吉野作造の「民本主義」、「大正デモクラシー」という言葉で言い表されるように、農民・労働者・中小商工業者・婦人などの民衆運動や普通選挙運動が高揚し、組織化されていった時代である。民主主義が大いに前進し、社会主義・共産主義運動も活発化した。
目を引くのは、この時代の女性の活躍であろう。明治期から次第に女性の自立が目指されるようになり、大戦景気による産業の発達や、女子教育の普及など様々な要因により、本格的に女性は社会へと進出するようになる。

婦人参政権

世界で最初に女性参政権を獲得したのは、1893年のニュージーランドである。(アメリカは1920年、イギリスは1928年である)。
日本の女性が参政権を獲得したのは、1945(昭和20)年12月に制定された新選挙法によるもので、翌1946(昭和21)年4月に総選挙が行われた。今年は、日本の女性が初めての参政権を行使してからちょうど60年目にあたる。
女性の権利といえば、明治に産声を上げた平塚らいてうの『青鞜』創刊号を飾った「原始、女性は太陽であった」という言葉が有名であるが、そこから始まった運動の芽を育てていったのは大正時代の女性たちである。1913(大正2)年に雑誌『太陽』が7月増刊号で「近時之婦人問題号」、1920(大正9)年に創刊した『女性及日本人』が創刊号で「婦人参政号」といった特集を組むなど、「婦人」や「家庭」と銘打った雑誌が多数出版されるようになり、参政権を始めとして、女性の自立を求める気運が高まっていく。

新婦人協会
14) 近代日本史 : 明治維新百年 写真図説 第6 大正デモクラシー / 日本近代史研究会編
東京 : 国文社, 1967
【210.6-N685k3】
15) 女性同盟 複製版 創刊号 (大正9年10月)
東京 : ドメス出版, 1985 (原本の出版者:新婦人協会)
【Z6-2056】
「新婦人協会」は日本最初の婦人の手による政治団体である。平塚らいてう、市川房枝、奥むめおらが中心となって1919(大正8)年発足*した。婦人の社会的・政治的権利の獲得を目指し、まず、治安警察法の改正を目指して運動を展開した。[資料15]『女性同盟』は、同会の機関紙である。
治安警察法は1922(大正11)年4月に改正され、婦人の政治集会への参加と発起が認められた。なお、納税資格を撤廃し、25歳以上の男性に選挙権、30歳以上の男性に被選挙権が与えられた普通選挙は1925(大正14)年に実現した。
(*協会が発足式を開いたのは1920 (大正9) 年であるが、1919 (大正8) 年11月に平塚らいてうが行った設立発表直後から活動を開始したと考えられる。)
女性同盟創刊号の表紙.jpg
創刊号の表紙

婦人運動あれこれ

1921(大正10)年、伊藤野枝・山川菊枝・堺真柄など婦人社会主義者が中心となって「赤瀾会」を結成し、婦人の啓蒙・隷属からの解放を趣旨に急進的な活動を行った。
新婦人協会は1922(大正11年)年12月に解散するが、「婦人連盟」や「日本婦人参政権協会」など様々な団体が生まれていく。これら諸団体の団結を図るため、1924(大正13)年12月、「婦人参政権獲得期成同盟」(久布白落実と市川房枝が代表)が結成され、婦選運動は新たな時代に突入する。

婦選運動に興味を持たれた方へ

「婦選は鍵なり」の信念の元に、生涯を婦人参政運動にささげた市川房枝の政治談話録音(当館ホームページ「テーマ別調べ方案内」)が今年の1月に公開されました。政治談話録音とは、戦前から戦後の日本政治史上で、重要な役割を果たした人物の談話を聴取し、録音テープに収めて後世に伝えることを趣旨として、国立国会図書館が実施した事業です。
1961(昭和36)年から1987(昭和62)年にかけて10人の人物の談話を聴取しましたが、市川房枝は女性では唯一の談話者でした。市川談話は1978(昭和53)年3月と5月に実施され、自身の婦人運動史が6時間余にわたって語られています。
利用方法はじめ、政治談話録音についての詳細は憲政資料室へお問い合わせください。

教育(自由教育運動)

児童の創造性を伸ばす教育運動が盛んに行われたのも大正時代である。
民主主義論が活発になるにつれ、西欧近代哲学・人道主義・民主主義によって自由を尊ぶ気風が起きたのである。教育界以外の文学者や芸術家も教育について発言し、統制的画一教育への批判とともに芸術教育を通しての子どもの心性の解放を主張した。
山本鼎による美術教育改革運動、鈴木三重吉や北原白秋らによる童話・童謡など児童文化の創造、自由教育運動協会の結成など、画一的で国家主義的な堅苦しい教育ではなく、子どもを中心に、より自由で生き生きとした教育体験の創造を求める動きが活発となった。

自由学園と文化学院
16) 自由学園の教育 / 羽仁恵子著
東久留米 : 自由学園, 1970
【FB22-78】
J) 同資料 [複製]
日本最初の婦人記者、羽仁もと子とその夫吉一が設立した学園。開校は1921(大正10)年4月、7年制の女学校であった。キリスト教的自由主義に基づき、教育の目的を「真の自由を作ること=節度ある自由を理想」とし、実践的な教育を展開した。
同時期に帝国ホテル新館を設計したフランク・ロイド・ライトが、宇治の平等院鳳凰堂にヒントを得た校舎を設計している。
17) 愛と叛逆 : 文化学院の五十年
東京 : 文化学院出版部, 1971
【FB22-101】
芸術家であり、教育に対して進歩的な見識を持っていた西村伊作が長女のために新設した学校。開校は自由学園と同じ1921(大正10)年4月である。校舎や校庭も伊作が設計し、与謝野寛・晶子夫妻、山田耕作、石井柏亭ら多くの文学者や芸術家が教育を指導した。展示資料は、同校の設立趣意書。教育方針を「生徒の各の個性が受け入れるものを十分に與へることをして、而かも其れを強いることをせず、(中略)其天分を十分に伸ばさしめ、不得意なものを無理やり要求しません」とし、才能教育に力を入れた。また、昭和戦前の中等段階の教育機関では唯一、共学(1925-27年の2年間)を実施した。
私立学校

1921(大正10)年に設立した「自由学園」と「文化学院」は、文部省令や学校令による認可を受けず、自由なカリキュラムによる個性的な教育を実践する私立学校でした。二つの学院の大きな特徴として
・自由学園は女子教育に専念。玄人的・実科中心、常識的、職業的。
・文化学院は共学を志向。素人的・文科重視・理想主義的、人間的。
という相対的な違いがあるとされています 。
(参考) 新学校叢書. 第3篇 東京 : 玉川学園出版部, 1930 【259.5-102】

※この資料は電子資料室でのご利用となります。

自由教育運動
K) 赤い鳥 創刊号 (大正7年7月) 複製版
東京 : 日本近代文学館, 1968 (原誌の出版者:赤い鳥社) [複製]
【Z13-889】
1918(大正7)年、「芸術として、真価のある純麗な童話と童謡を創作する最初の文学的運動」を理想として掲げて創刊した児童雑誌。鈴木三重吉が主宰し、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』や北原白秋の『からたちの花』といった作品が発表された。三重吉の綴り方指導や北原白秋の自由詩指導など、子どもの創造性を重視した新しい教育も実践された。それまでの教訓的な御伽噺を文芸童話にまで高めたことが評価され、自由教育運動に賛同した教師、父母から強く支持された。
展示資料は創刊号の表紙と目次である。表紙の『お馬の飾り』を描いたのは、創刊当時から表紙を含めて童画を担当した清水良雄(1891-1954)である。
赤い鳥創刊号の表紙.jpg
創刊号の表紙

18) 藝術自由教育 創刊号 (大正10年1月) / アルス編 復刻版
東京 : 久山社, 1993 (原誌の出版者,出版年:アルス 1921)
【Z7-B231】
1920(大正9)年12月に結成された「日本自由教育協会」が発行した雑誌。片山伸、岸邊福雄、山本鼎や北原白秋が編集にあたった。創刊号の「巻頭言」には、彼らの意気込みが表れている。創刊号には、「文芸教育論」(片山伸)・「童謡復興(一)児童自由詩宣伝の前提」(北原白秋)・「自由画教育の反対者に」(山本鼎)など芸術自由教育の論考と、童謡3作品が掲載されている。文化学院の創設者西村伊作も、彼の家庭教育のありさまを綴っている。
大正生まれのスポーツイベント
《1.高校野球》
L) 全國優勝野球大會(社告) (大阪朝日新聞 [マイクロフィルム] 12005号 大正4年7月1日)
[複製]
【YB-3】
19) 全国高等学校野球選手権大会史 / 朝日新聞社編
大阪 : 朝日新聞社, 1958
【FS35-257】
今では夏の風物詩として定着した高校野球が始まったのもこの時代である。[パネルL]は大正4年7月1日、大会の開催を知らせる社告が掲載された新聞で、周囲の記事からは第一次世界大戦の影響がうかがえる。第1回大会は8月18〜22日の5日間、10校によって開催された。優勝は京都二中であった。[資料19]は、開会式の模様を伝える写真(翌日の新聞に掲載されたもの)である。
第1,2回大会は大阪の豊中球場、第3〜9回大会が兵庫の鳴尾球場、そして1924(大正13)年の第10回大会以降、現在も行われている甲子園球場で開催されるようになった。
なお、春のセンバツ大会は、1924(大正13)年に第1回大会が行われ、現在に至っている。

高校野球第1回大会の始球式.jpg
高校野球第1回大会の始球式(「大阪朝日新聞」12054号 大正4年8月19日朝刊 【YB-3】)

《2.駅伝》
20) 歴史写真 第51号(大正6年6月)
東京 : 歴史写真会, 1917
【408-99】
※マイクロフィッシュ【YD5-H-408-99】でのご利用になります。
M) 読売新聞 [マイクロフィルム]
東京 : 読売新聞東京本社 〔複製〕
【YB-41】
※展示は14382号(大正6年4月27日)の記事
1917(大正6)年、東京市の奠都50年記念大博覧会に合わせて、何か新しい運動競技を計画しよう、ということで生まれた企画が日本最初の駅伝大会である。これは、関東と関西の二つの団体が、50年前に明治天皇が上京されたのと同じ日(4月27日)に京都三条大橋を出発し、3日間かけて東京上野不忍池までの500余kmを23区間に分けて走る大会であった。結果は、関東組が41時間44分、関西組が43時間8分のタイムであった。
[資料20]は、レースの様子を一目見ようと日本橋に集まった群衆である。また、[パネルM]は、その模様を伝える新聞で、紙面を取り囲むように京都から東京までのコース案内が描かれている。この絵図を描いたのは、同社で漫画・挿絵を担当していた画家の近藤浩一路(1884-1962)である。右端の京都ではスタートしようとする二人の走者、東京奠都博覧会場には手を上げてゴールする瞬間の選手が描かれている。

参考資料

史料が語る大正の東京100話 / 日本風俗史学会編
東京 : つくばね舎, 2002
【GB461-G12】
明治・大正家庭史年表 : 1868→1925 / 下川耿史, 家庭総合研究会編
東京 : 河出書房新社, 2000
【GB9-G59】
20世紀全記録 : Chronik 1900-1990 / 講談社編 増補版
東京 : 講談社, 1991
【GA76-E12】
日本モダニズムの研究 : 思想・生活・文化 / 南博編
東京 : ブレーン出版, 1982
【GB491-3】
大正文化帝国のユートピア : 世界史の転換期と大衆消費社会の形成 / 竹村民郎著
東京 : 三元社, 2004
【GB491-H2】
タクシー/モダン東京民俗誌 / 重信幸彦著
東京 : 日本エディタースクール出版部, 1999
【DK43-G55】
百貨店の文化史 : 日本の消費革命 / 山本武利,西沢保編
京都 : 世界思想社, 1999
【DH468-G632】
東京駅々史 / 東京南鉄道管理局編
東京 : 東京南鉄道管理局ほか, 1973
【DK53-63】
『同潤会のアパートメントとその時代 / 佐藤滋ほか著
東京 : 鹿島出版会, 1998
【KA261-G13】
同潤会に学べ : 住まいの思想とそのデザイン / 内田青蔵著
松戸 : 王国社, 2004
【KA261-H6】
私の築地小劇場 / 浅野時一郎著
東京 : 秀英出版, 1970
【KD521-12】
日本放送史 / 日本放送協会編
東京 : 日本放送協会, 1951
【699.2-N684n】
NHK交響楽団50年史 : 1926-1977 / NHK交響楽団編
東京 : 日本放送出版協会, 1977
【KD279-11】
近代日本文学史 / 三好行雄編
東京 : 有斐閣, 1975
【KG311-130】
すみれ花歳月を重ねて : 宝塚歌劇90年史
宝塚 : 宝塚歌劇団, 2004
【KD597-H13】
「第九」のすべて / 武川寛海著
東京 : 日本放送出版協会, 1977
【KD279-9】
市川房枝おもいで話 / 市川ミサオ著, 市川房枝記念会編
東京 : 日本放送出版協会, 1992
【GK64-E27】
市川房枝と婦選運動のあゆみ / 大森かほる著
東京 : 平原社, 1993
【AZ-251-E233】
自由学園の歴史 1 / 自由学園女子部卒業生会編
東京 : 自由学園女子部卒業生会, 1985
【FB22-1973】
教育改革者の群像 / 中野光著
東京 : 国土社, 1991
【F6-E6】
西村伊作の楽しき住家 : 大正デモクラシーの住い / 田中修司著
東京 : はる書房, 2001
【KA81-G165】
西村伊作の世界 : 「生活」を「芸術」として / 西村伊作作 ; 水沢勉,植野比佐見編
大阪 : NHKきんきメディアプラン, 2002
【 KA81-G167】
鈴木三重吉と「赤い鳥」 / 根本正義著
東京 : 鳩の森書房, 1973
【KG614-27】
激動の昭和スポーツ史 3
東京 : ベースボール・マガジン社, 1989
【FS22-E14】
日本列島駅伝史 / 島田輝男著
東京 : 陸上競技社, 1987
【FS33-G183】
写真通信 : 教育資料 第9号
東京 : 大正通信社, 1915
【YD5-H-408-117】
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