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第153回常設展示 「国技・相撲」 -近代以降の事件と名力士-

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第153回常設展示 「国技・相撲」 -近代以降の事件と名力士-

キーワード:相撲;国技;力士  カテゴリ:社会・労働・教育 件名(NDLSH):相撲  分類(NDC):788.1

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はじめに

横綱常陸山(右から2人目)

◇横綱常陸山(右から2人目)◇

 

今回の常設展示では、日本の国技と呼ばれる相撲を取り上げます。古くは『日本書紀』にも記述され神事としての起源を持つといわれる相撲が、明治以降にスポーツとして発展してきた歴史を、当館資料やパネルを通じてご案内します。相撲の近現代史を立体的に感じ取って頂くため、時代の節目となった「事件」と、時代を代表した「ひと」に焦点を当てました。
第1章では、まず、近代以降の相撲界の動向を概観します。現在では国技として広く親しまれている相撲も、明治の初頭には、文明開化にそぐわない「蛮風」として排撃され、存亡の危機にありました。その危機からの脱却や、その中で徐々に進められた組織と制度の改革、そして、相撲を国技とする認識の端緒となった国技館の建設など、”相撲が国技と呼ばれるまでの歴史”、そして”国技としての相撲の歴史”を、順を追ってご紹介します。
第2章では、明治から昭和にかけて世間の話題となった事件を取り上げます。相撲がスポーツや娯楽として定着していくにつれ、力士達からも様々な待遇改善の要望が出るようになり、何度かストライキがおこりました。その代表的なものが、昭和初期に発生した春秋園事件です。また、国会で相撲協会の体質が取り上げられるなど、大きな社会問題になったこともあります。このような、相撲の組織や制度改革のきっかけとなった事件について、報道記事を中心にご紹介します。
第3章では、明治から昭和の終わりまで、マスメディアの発展によって誕生した、それぞれの時代を代表するスター力士たちをご紹介していきます。たとえば、『常陸山谷右衛門』(式守伊之助著 筑波書林 1988)に掲載されている、明治の横綱・常陸山が洋行の際にシルクハットを被っている写真は、文明開化の時代を象徴する力士像として印象的でしょう。その他にも、「不世出の大横綱」と呼ばれる双葉山の連勝ストップを伝える雑誌記事(パネル)や、「栃若時代」の漫画雑誌に掲載された幕内力士の特集記事など、興味深い資料を展示しています。
マスメディアで話題となることの多い相撲ですが、21世紀、相撲は果たしてどこに向かっていくのでしょうか。「国技」と呼ばれているにもかかわらず、その歴史については意外に知られていないかもしれません。今回の展示が相撲の歴史を振り返るきっかけとなれば幸いです。

資料をご覧になる場合のご注意

  • 展示資料には1〜22までの通し番号を、パネルにはA〜Lまでのアルファベットを付けています。
  • 本文中【 】内の記号は、国立国会図書館の請求記号です。
  • 請求記号がYDM、YB、YDで始まる資料はマイクロフィルムあるいはマイクロフィッシュによるご利用となります。
    マイクロフィルム、マイクロフィッシュは展示期間中もご利用になれます。
  • 資料名のあとに[近代]とあるものは、当館のホームページ内「近代デジタルライブラリー」で画像をご覧になれます。タイトルにはられたリンクからご利用ください。
  • 資料名のあとに[館電]とあるものは、東京本館および関西館に設置された電子情報提供サービス端末から利用が可能です。
  • 引用文内の旧字体の漢字について、変換の困難なものは同訓同意の新字に置き換えたものがあります。
  • サムネイル画像をクリックすると大きい画像をご覧いただけます。


第1章 国技と呼ばれるまで

相撲を“国技”とする認識は、現代では広く定着していますが、その起こりはそれほど古くなく、明治42(1909)年の「国技館」(相撲常設館)開設に端を発するものであるとする説が有力です。この国技館開設や諸制度の改正等、決して平坦な道程ではありませんでしたが、近代以降、相撲界は発展の道を歩んできました。
第1章では、変革を求める社会の動きの中で相撲が直面した大きな危機や、それを乗り越える中で為し遂げてきた組織と制度の近代化等、“国技・相撲”の近代以降の軌跡を概観し、第2章・第3章をご覧いただく前提として、相撲の近現代史の大まかな流れをご紹介したいと思います。

■相撲存続の危機

文明開化を唱え、急激な西欧化・近代化が推し進められた明治時代、相撲は思いがけず大きな危機に見舞われることとなる。
明治2(1869)年の版籍奉還、同4(1871)年の廃藩置県を機に、藩主の抱えを解かれ扶持を失う力士たちが増えたことは相撲界にとって大きな打撃であった。更に追い討ちを掛けるように散髪脱刀令および廃刀令が施行され、洋風を礼賛し、伝統よりも近代化を重んじる風潮が高まると、“裸にまわし、ちょんまげ”という古風なスタイルを「蛮風」として、相撲を排撃する論が次第に広がりを見せるようになった。
ここでは、明治初期に起こった相撲不要・廃止論と、危機からの脱却において大きな意味のあった、明治17(1884)年の天覧相撲を紹介する。

A)「相撲の説」 東京日日新聞* [マイクロフィルム] 246号 明治5(1872).11.24 朝刊 1面
*23811号以降毎日新聞
[複製]
【YB-6】
相撲ファンからの投稿記事で、相撲不要・禁止論に対抗し、力士が町内の警備を行うことで相撲の存在価値を認めてもらうことを提案している。
この提案は、明治9(1876)年の力士消防別手組設置により、形を変えて実現することとなる。

相撲の説
◇「相撲の説」◇

1)「角力ヲ禁ズベキノ論」 朝野新聞* 822号 明治9(1876).5.26 縮刷版
東京 : ペリカン社 *朝野新聞 【新-532】の縮刷。(朝野新聞は、マイクロフィルム【YB-134】でのご利用になります。)
【Z99-158】
相撲を「野蛮未開の人民の為す所のものにして文明の人民の為さざる所なり」とし、「賢明政府の角力を禁ずるの令を発せん事」を主張する内容となっている。
相撲禁止をめぐる論争の拡大は、相撲存続に大きな翳りを落すこととなったが、前述の通り相撲界も消防別手組を組織するなどして対抗し、明治11(1878)年に警視庁から「角觝並行司取締規則及興行場所取締規則」が発布されると、事実上、相撲興行は警視庁の公認となった。それを後押しにして相撲界は活気を取り戻し、相撲禁止論は次第に下火となった。

2)「天覧角觝之図」 相撲の歴史 / 池田雅雄著
東京 : 平凡社, 1977.3
【FS37-133】
相撲不要・廃止論を乗り切り、相撲界はようやく組織改革を含めた近代化の道を歩み始めたが、依然として相撲の人気は低迷しており、力士たちの生活は困窮を極めていた。
そんな中、思わぬ追い風となったのは、明治天皇の相撲好きと無頼の強さを発揮した梅ヶ谷藤太郎(初代、玉垣部屋)の出現だった。
明治17(1884)年に芝離宮延遼館で行われた明治天皇の四回目の天覧相撲は、規模も格段に大きく、梅ヶ谷藤太郎とその好敵手と目された大達羽左衛門(高砂部屋)の取り組み等名勝負もあり、相撲人気回復に大きく貢献することとなった。

■東京相撲と大阪相撲の合併

明治初期、相撲興行を運営・統括していたのは江戸時代から続く“会所”組織だった。会所は元力士である相撲年寄らによって運営され、維新後も変わらず興行の世話役から会計経理までの全てを掌握していた。しかしながら、相撲廃止論や人気低迷により力士の生活がますます窮乏するようになると、会所幹部の運営に不満を持つ力士が増え、改革を唱えて会所と争うような事例が目立つようになってきた。
東京会所では、明治6(1873)年に高砂浦五郎らが相撲改革を訴えて会所から除名される事件があったが、明治11(1878)年に和解して復帰し、明治22(1889)年に相撲会所を「東京大角力協会」と改称して経営を改めた。しかしながら、その後も財政難等の問題は絶えず、改革を迫る力士たちのストライキ事件が何度も起こった。
一方、大阪会所でも同様の分裂抗争が頻発していたが、明治30(1897)年になってようやく組織改革が断行され、「大阪角力協会」が発足した。
以後、財政難等を理由に東西両協会合併の気運が高まり、大正14(1925)年に合併調印の運びとなり、同年、財団法人の認可を受けて大日本相撲協会となる。

3)大相撲八十年史 : 財団法人日本相撲協会設立
東京 : 日本相撲協会, 2005.12
【KD6-H51】
東西両組織の改革の進度の違いや実力差などから合併問題は当初難航していたが、大正14(1925)年に摂政宮殿下(後の昭和天皇)から下賜された金一封によって優勝摂政杯(後の天皇杯)を作成した東京大角力協会が、その栄光を共有するという大義名分をもって大阪角力協会に迫り、ついに両陣営合併の運びとなった。次いで、同年9月に出した申請が通り、財団法人大日本相撲協会(*)は大正14(1925)年12月28日に文部省の認可を受けて成立した。
東西合併の土俵は、昭和2(1927)年1月場所から実現し、関西場所を春秋二場所開催するため、年四場所興行となった。
(*昭和33(1958)年に「財団法人日本相撲協会」と改称。)
■国技館の設立

明治初期には存廃の危機に瀕していた相撲も、西洋化礼賛の風潮が落ち着くに従って次第に人気を取り戻しつつあった。東京大角力協会はその状況を受けて、明治42(1909)年、両国に相撲常設館を設立する。この常設館は「国技館」と命名され、以後、興行の安定と拡大していく人気を背景に、相撲を国技とする認識が広まる端緒となった。
安永7(1778)年以来晴天十日間とされた興行日数は、雨が降れば日程が繰り延べられ、十日間の本場所を終えるのに1ヶ月以上を要することもしばしばであったが、この常設館の設立により、晴雨に拘わらず安定した興行を行えるようになった。また、これを機に諸制度の改革が行われ、幕内力士の十日間皆勤や東西対抗の優勝制度が定められ、番付・階級等の整備も進み、相撲の近代化の契機ともなった。

B)「國技館開会式」 読売新聞 [マイクロフィルム] 1503号 明治42(1909).6.3 朝刊 3面
[複製]
【YB-41】
[館電] ※明治の讀賣新聞 v.34【YH231-650】でもご覧いただけます。
相撲常設館の開会式は明治42(1909)年6月2日に開催され、常設館委員会委員長板垣退助の開館の辞朗読により、国技館の命名が披露された。以下、紙面より開館の辞の一部を抜粋。

我角力協会(わがすまふけふくわい)は経営多年今(けいえいたねんいま)や其工(そのこう)を竣(をは)り之(こ)れを國技館(こくぎくわん)と命名(めいゝ)す茲(ここ)に開館(かいくわん)の式(しき)を挙(あ)ぐ夫(そ)れ角力(すまふ)は日本古来(にほんこらい)の國技(こくぎ)にして國民的娯楽(こくみんてきごらく)たり之(これ)をして社会(しゃくわい)の武育(ぶいく)に裨益(ひえき)せしむるこれ本協会(ほんけふかい)の責務(せきむ)なり

国技館の命名については諸説あるが、好角家(こうかくか)(相撲ファン)で知られた作家江見水蔭執筆の初興行披露状にヒントを得て、協会年寄の尾車文五郎検査役が提案したものとする説が有力である。
命名は開館直前まで難航し、「尚武館」「大相撲常設館尚武館」「相撲館」など、様々な案が提案された。板垣退助委員長は「角觝尚武館」を提案したと言われているが、いずれの案にも落ち着かず、最終的には協会年寄に一任する形となった。その後の協会役員による協議で「国技館」の名称が提案され、一同の賛同を得て決定の運びとなったのである。

 

「國技館開館式」
◇「國技館開館式」◇

 

参考:「國技相撲 / 加藤隆世」 アルス運動大講座 第1-12
東京 : アルス,大正15(1926)-昭和3(1928)
【YD5-H-601-4】
大正末期から昭和初期にかけて刊行された運動概説書。
下記は『國技相撲』の項の冒頭の一文である。相撲を国技とする説を、江見水蔭の名句として紹介している。

『夫れ相撲は本朝の國技なり』とは國技館の名附親として、又文士相撲の開祖として相撲道に因縁浅からざる文壇の老将江見水蔭氏が喝破(かっぱ)された所の相撲道に関する不朽の名句である。

江見水蔭執筆の初興行披露状の言葉や、それを受けての国技館という命名が、相撲を国技とする認識を広める端緒となったとされている。

4)相撲・両国・国技館:新国技館開館記念
〔東京〕 : 〔東京都〕墨田区立緑図書館, 1985.1 (墨田区立図書館叢書 ; 4)
【KD971-67】
国技館の完成により、それまでの小屋がけではせいぜい2000人程度であった収容人数は一挙に1万3000人にまで増加し、協会経営もいくぶんの安定を見せるようになった。
しかしながら、大正6(1917)年にこの初代の国技館は失火によって全焼し、大正9(1920)年に再建された2代目国技館も関東大震災で失われることとなった。再建3代目の国技館は空襲で被災、戦後軍部に接収されて一般売却(その後は日本大学講堂)となり、それに代わって建設された蔵前国技館を経て、昭和60(1985)年に両国に戻った現在の国技館は5代目にあたる。
■組織や制度の近代化

国技館設立というきっかけを得て、相撲を国技とする言説は広く浸透・定着していったが、それを維持し続けてきた陰には、力士、協会、好角家の不断の努力があった。
ここでは、スポーツとしての相撲の地位確立に必要不可欠だった諸制度の改革(横綱という地位、総当たり制等)についてご紹介する。

5)大相撲明治番附集 巻之1 / 根岸治右エ門編
東京 : 根岸静次郎, 大正5(1916)
【YD5-H-410-44】
C)明治時代の番付表(「5.大相撲明治番附集」より)
[複製]
D)現代の番付表※比較対象のために掲示。個人蔵。
現在のような縦一枚番付が採用されたのは、宝暦7(1757)年の江戸相撲が最初と言われている。明治時代の番付表も現在の番付表とほとんど形式の差異は見受けられないが、明治(展示したものは明治前期)の番付表には、「横綱」の標記が無いことにご注目いただきたい。
横綱の称号は江戸時代に成立したと言われているが、地位として確立されたのは明治末期のことで、国技館の設立を機に改正された協会規則に、初めてその地位を明文化されることとなった。

6) 最近相撲図解 / 出羽之海谷右衛門述, 水谷武編
東京 : 岡崎屋書店, 大正7(1918)
【YD5-H-31-560】[近代]
出羽海親方(明治の横綱、常陸山)の著述。相撲の沿革、故実・慣例から技の説明など、内容は多岐にわたる。また、当時の相撲界の動向や組織について詳細に記されており、次第に体制が整備されていく様子を読み取ることができる。

 

「内掛」
◇「内掛」(最近相撲図解【YD5-H-31-560】)◇

 

E)大日本相撲協会寄附行為細則 昭和14年細則より第17条
参考:近世日本相撲史 第2巻 / 日本相撲協会博物館運営委員監修
東京 : ベースボールマガジン社, 1977.3
【YP17-44】
度重なる国技館の再建や、不況の煽りなどで、協会は慢性的な経営難に陥っていたが、大正末期になると折からの社会運動の影響で、力士や行司の間にも待遇改善を求める声が高まり、協会と力士側との間でしばしば衝突が起こることとなった。協会側はその都度、東西合併や興行日を増やすなどして対応し、少しずつではあるが、経営の建て直しとともに、体制の整備が行われていった。

7)「情を捨て勝負に生きる」 相撲 14巻2号(通号197号) 1965.2
【Z11-252】
体制や規則を整備するとともに、ファンの声に応え、名勝負を取り行うことも、相撲界の発展に欠かせない要素である。伝統的な相撲の対戦制度は、番付上の東方と西方が対抗関係をとり、同じ側同士の力士は対戦しない「東西制」であった。この制度のもとでは、取組のバラエティーは著しく不足していた。その後、昭和7(1932)年の春秋園事件(第2章参照)を機に、同じ系統の部屋同士のみ対戦しない「一門系統別総当たり制」が導入される。改革は戦後もなお続き、ファン待望の「部屋別総当たり制」が実施されたのは昭和40(1965)年のことだった。この改正により、それまでの一門系統別では見ることのできなかった、さらにバラエティーに富んだ取組が行われるようになり、相撲ファンを大いに沸かせた。
参考:近現代相撲史年表

 

第2章 相撲をめぐる事件

国技として定着し、人々に親しまれるようになった相撲。人気が拡大し、協会の組織や運営が安定するにつれ、力士側からは生活保障の問題など多くの要望が出るようになりました。また、いつの時代にも相撲に関する報道は多く、人々の関心の高さがうかがえます。
第2章では、その中から新橋倶楽部事件、三河島事件、春秋園事件と、昭和32(1957)年・46(1971)年に報道された事件を取り上げ、各時代を騒がせた相撲改革事件をご紹介していきます。

■新橋倶楽部事件

明治44(1911)年1月10日、春場所直前に力士数名が共謀し、回向院の大広間に横綱、大関を除く関脇以下東西力士を集めた。力士側は相撲協会に対して配当金、養老金などの待遇改善の要求を提出した。しかし協会側は、国技館建設の借入金利息のため利益が少ないことを理由に、再三にわたる交渉も決裂。ついに関脇以下十両以上54名が独立興行をめざし、新橋倶楽部に篭城。土俵を作りけいこを始めた。

8)日曜画報 1巻5号 明治44(1911).1.29
【雑54-62】
明治44(1911)年創刊の風俗、娯楽雑誌。諷刺文、政局、政治家論などの掲載の中に、新橋倶楽部事件を受けて「力士の生活」という記事が書かれている。この中では、「力士は贅沢である」と皮肉たっぷりに力士の生活状況を紹介。しかし実際には、力士の給料は成績順に決まるため、下位の力士の給料は家族を養うには不十分であるとも書かれている。
9)明治時代の大相撲 / 加藤隆世著 復刻版
東京 : 本の友社, 2001.3 (大相撲鑑識大系;4)
【KD971-G92】
本書は、『大相撲鑑識大系』(全7巻)の中の「明治編」にあたり、昭和17(1942)年に発行された。新橋倶楽部事件についても、詳細に解説されており、同事件によって、引退力士の養老金支給の道が開かれたことが述べられている。
■三河島事件

景気低迷や国技館全焼(大正9年に再建)により相撲人気が衰えていた中、大正12(1923)年1月11日、春場所開幕の前日に、横綱・大関を除く十両以上の力士と十両格以上の行司が協会に対し養老金倍額などの要求を提出した。協会側は、場所後に考慮すると回答。すると力士側は、即時決行を主張し、上野駅前の旅館・上野館に篭城した。しかし、協会側は予定通り12日から本場所を開くことを決定。交渉決裂と共に、力士達は三河島の日本電解会社工場に移転し篭城した。この騒ぎは赤池警視総監が調停に立ち、わずか9日で解決。養老金捻出のため、次の夏場所から場所日数を1日増やすことになったが、要求改革はほとんど実行されず、後の春秋園事件に尾を引いた。

F)[相撲協会が載せた謹告] 読売新聞 16461号 大正12(1923).1.13 4面
[複製]
【YB-41】
[館電] ※大正の讀賣新聞 v.19【YH231-721】でもご覧いただけます。
調停がうまくいかず、相撲協会が新聞に出した広告記事。力士側の篭城に対し、協会は予定通り12日から本場所を開くことを決定。騒動に参加していない十両以下で無理やり初日を開場した。

相撲協会が載せた謹告
◇[相撲協会が載せた謹告]◇
G)「要求貫徹するまで大場所に出場せず」 / 「出場せぬ力士は脱走と認め番付を抜くことに決定す」
二六新報 2957号 大正12(1923).1.11付 (1月12日発行) 夕刊 2面 / 2958号 大正12(1923).1.12 付(1月13日発行) 夕刊 2面
[複製]
【YB-143】
H)「力士会愈よ妥協か」 読売新聞 16462号 大正12(1923).1.14 5面
[複製]
【YB-41】
[館電] ※大正の讀賣新聞 v.19【YH231-721】でもご覧いただけます。
I)「手打にはなつたが大錦が突然の隠退」 東京日日新聞* 16638号 大正12(1923).1.18 朝刊
*23811号以降毎日新聞
[複製]
【YB-6】
各誌新聞には、連日、事件の様子が報道された。これらの記事はその一部である。赤池警視総監の調停により、無事に解決したように見えた事件であったが、手打式の最中に横綱・大錦(出羽海部屋)が髷(まげ)を切り、引退を表明するという事件が起こる。調停が自力では解決できず、外部の力に頼らざるを得なかったことに対して責任をとった行動であり、角界にさらなる波瀾をよんだ。

要求貫徹するまで大場所に出場せず
◇「要求貫徹するまで大場所に出場せず」◇

出場せぬ力士は脱走と認め番付を抜くことに決定す
◇「出場せぬ力士は脱走と認め番付を抜くことに決定す」◇

力士会愈よ妥協か
◇「力士会愈よ妥協か」◇

手打にはなつたが大錦が突然の隠退
◇「手打にはなつたが大錦が突然の隠退」◇
■春秋園事件

昭和7(1932)年1月6日、相撲改革をとなえる関脇・天竜、大関・大ノ里の呼びかけに賛同した西方、出羽海部屋の力士達が、品川大井町の中華料理店「春秋園」に立てこもり、相撲協会に要求書の決議文を提出するという大紛争が勃発。要求が受け入れられないとみるや、力士達は髷を切り、新興力士団を結成して協会を脱退した。また東方力士の一部も、これを受けて同様の主張のもとに革新力士団を結成し協会を脱退。幕内残留力士はわずかとなり、角界は混乱に陥った。新興力士団・革新力士団は合同興行を行い、人気を集めたが、翌8(1933)年1月には多くの力士が協会に帰参した。天竜らは関西角力協会を設立して抵抗を続けたが、昭和12(1937)年12月に解散した。

10)相撲風雲録 / 和久田三郎著
藤沢 : 池田書店, 1955
【788.1-W43s】
春秋園事件の中心人物・天竜が後に執筆し、半生を綴った自伝本。自分の生い立ちから春秋園事件を起こすまでのいきさつ、新興力士団の結成・興行、解散後のことなど、天竜の目から見た事件の様子が語られている。

11)野球界 臨時増刊22巻7号夏場所相撲号 昭和7.(1932).5.10
【雑35-83】
雑誌『野球界』は、野球だけでなく相撲の記事も多く取り上げている。事件直後の臨時増刊夏場所相撲号の内容は春秋園事件一色で、巻頭グラビア、特集記事、共に事件に関する記事が多く載せられている。「新興力士団座談会」という特集もあり、新聞記者達と新興力士団の座談会の様子が書かれている。

12)小説春秋園事件始末 : 大相撲史上最大の反乱 / 殿岡駒吉著
船橋 : 秀文社, 1994.12
【KH626-G646】
天竜と同郷で親交もあった著者が記した、春秋園事件がモデルの小説。事件の記録を元に、改革実行に至った力士達の模様がドキュメンタリー形式で描かれている。

J)「秘策をめぐらす天龍」 野球界 臨時増刊22巻7号夏場所相撲号 昭和7.(1932).5.10
[複製]
【雑35-83】
「秘策をめぐらす天龍」と題した写真。一人机に向かい、考え込む天竜の姿が写真に収められている。

秘策をめぐらす天龍
◇秘策をめぐらす天龍◇

 

■昭和32年・46年の報道

昭和32(1957)年3月2日衆議院予算委員会で、茶屋制度や公益法人としての相撲協会の体質が問題視される。5月には時津風理事長(元横綱・双葉山)が就任し、相撲協会の組織・機構・運営についての改革が次々と発表、実行されていった。また、昭和46(1971)年には力士と暴力団との交際が報道、さらに中学生力士の地方場所出場が問題になり、12月の衆議院文教委員会でもとりあげられるなど、土俵の外でもいろいろな問題が起こった。

13)激動の相撲昭和史 / 高永武敏,原田宏共著
東京 : ベースボール・マガジン社,1990.2
【KD971-E39】
昭和の相撲界に起こった出来事を、年代ごとに解説した書。昭和32(1957)年、公益法人としての相撲協会の体質が問題視される。この問題は国会でも取り上げられ、論争は過熱した。茶屋制度など協会の営利実態が追及された。

K)「時津風理事長に期待する」 朝日新聞 25600号 1957.5.7 朝刊 6面
[複製]
【YB-2】
5月、時津風理事長(元・双葉山)が就任した際の新聞記事。記事の中には、春秋園事件を起こした元・天竜の和久田三郎によるコメントも載せられている。
実際、時津風理事長が就任してから、相撲協会の組織・機構・運営についての改革が次々と実施された。この改革により力士が「サラリーマン」となる。明治の新橋倶楽部事件、大正の三河島事件、昭和戦前の春秋園事件も、基本的には力士達の生活保障が問題であり、この改革でやっとその保障が得られた。

民主的な協会運営を
◇[民主的な協会運営を](「時津風理事長に期待する」より和久田三郎氏のコメントを抜粋)◇

14)相撲 20巻14号 1971.12
【Z11-252】
昭和46(1971)年は相撲界にとって、暗いニュースが多い1年であった。横綱・玉の海(片男波部屋)の急死、力士と暴力団との交際、さらに中学生力士問題など、多くの問題が世間を騒がせた。本誌では、「悲しみの1971年よ、さようなら−暗いニュースの多かったこの一年−」と1971年を振り返り、特集を組んでいる。

 

第3章 時代を代表する名力士たち

明治以降の相撲の歴史は、各種制度の確立やメディアの発達と並行して、力量とカリスマ性を兼ね備えたスター力士が生まれてくる歴史でもありました。特に、文明開化の気運があった明治、戦時下で精神主義的な風潮が強かった昭和10年代、テレビ放送が普及した昭和30年代以降といった時代には、名力士たちのキャラクターや行動にも、それぞれの時代の空気が反映されていたように思われます。
第3章では、明治から昭和の終わりに至る各時代について、それぞれの時代を代表する名力士たちについて紹介していきます。最高位である横綱を張った力士たちが中心になりますが、平成20(2008)年の今日「外国出身力士」の存在が話題となっていることを踏まえ、その草分けと言える元関脇・高見山についてもご紹介します。

■明治・大正時代の名力士たち 〜近代相撲の草分け〜

第1章で紹介した通り、明治維新後の相撲界は、文明開化という状況のもとで生き残りを図るべく、東京大角力協会の設立を筆頭に組織や競技制度を整備していった。明治23(1890)年5月場所には、横綱という表記が番付上初めて登場した(協会規則に明文化され、地位として確立したのは明治42(1909)年からである)。そして、明治37(1904)年1月場所に常陸山(出羽ノ海部屋。同部屋の表記は、のちに「出羽海」となる)・二代目梅ヶ谷(雷部屋)が横綱へ同時昇進したことは、相撲の大衆的人気を確立する歴史的エポックであった。両者は毎場所のように好勝負を展開し、「梅・常陸」と並び称されるスターとなった。
特に常陸山は、土俵の上での活躍にとどまらず、明治40(1907)年8月から41(1908)年3月まで部屋の若手力士らと洋行し、アメリカ・カナダからヨーロッパ・ロシアを歴訪するという大胆な行動をとった。特にアメリカで、当時のセオドア・ルーズベルト大統領が見守る中、ホワイトハウスで土俵入りを披露したことは伝説的なエピソードとなっている。この洋行は、相撲の国際的な認知度を高めることに貢献したといわれる。
大正時代に入り、「梅・常陸」が衰えると、横綱・太刀山(友綱部屋)が圧倒的な強さで君臨し、大正半ばまでその単独支配が続いた。大正7(1918)年1月に太刀山が引退すると、栃木山・大錦の両横綱をはじめとする出羽海部屋の力士が上位を占め、春秋園事件まで同部屋の黄金時代が続くことになる。

15)常陸山谷右衛門 : 近代相撲を確立した郷土の“角聖” / 式守伊之助著
土浦 : 筑波書林, 1988.9
【KD971-E12】
元立行司・二十五代式守伊之助による、常陸山の伝記。著者は、出羽海部屋で常陸山の孫弟子に当たる立場から、遺族などへの取材を踏まえて、常陸山の豪快な人間像を余すところなく描き出している。展示頁の、シルクハットをかぶった洋装の常陸山の写真からは、文明開化の時代に生きる、近代的な力士像を感じ取ることができる。
16) 角力世界 48号 大正5(1916).5
【Z11-2417】
「角力世界」は、大正期の代表的な相撲雑誌の一つ。展示頁には、6人の横綱・大関の写真が掲載されているが、実態は太刀山(右頁)の独壇場であった。太刀山の突っ張りは、一突き半で相手を土俵外に出してしまうことから「四十五日(=一月半、すなわち一突き半)の鉄砲」との異名を取り、恐れられた。
左頁の大錦卯一郎は、のち横綱となったが、三河島事件の際、騒動の責任をとって自ら髷を切ったことで知られる。
■戦時体制下の英雄・双葉山 〜ラジオ時代の大横綱〜

春秋園事件で天竜・大ノ里らの人気力士が土俵を去った後、人気回復に苦慮していた相撲協会の救世主となったのが、昭和11(1936)年1月場所から破竹の69連勝を開始した双葉山(立浪部屋)であった。双葉山は昭和13(1938)年1月場所には横綱に昇進し、その連勝は折からの中国大陸における日本軍の進撃とも重ね合わせられ、民衆の熱狂的な人気を呼んだ。たとえば、『野球界』28巻11号(昭和13年7月)に掲載された「裸體の凱旋将軍双葉山」という記事は、その人気を象徴するものだろう。昭和3(1928)年1月から相撲のラジオ放送が始まっていたことも、この機運に拍車をかけた。
双葉山は、終戦直後の昭和20(1945)年11月場所を最後に引退し時津風親方となったが、昭和32(1957)年から日本相撲協会理事長をつとめ、協会員への給料制・定年制導入や、部屋別総当たり制導入などの改革を行った。現役時代の真摯な土俵態度と、上記のような理事長としての実績の両面から、「不世出の大横綱」と称されている。

17)相撲求道録 / 時津風定次著
名古屋 : 黎明書房, 1956
【788.1-To411s】
双葉山が、引退後に口述筆記で著した自伝。展示頁には、双葉山が陽明学者・安岡正篤から、「荘子」「列子」に由来するとして聞いた、「木鶏」の逸話が紹介されている。その逸話によれば、ある鶏を闘鶏飼いの名人が十分に訓練したところ、他の鶏の声を聞いても「木鶏」(木で作った鶏)のごとく動揺しなくなるまでに至ったという。「木鶏」の境地を目指していた双葉山は、69連勝がストップした後、安岡門下の友人に「イマダ モッケイタリエズ フタバ」と打電したと、本文で記述されている。

L)[グラビア] 野球界 増刊相撲画報29巻5号春場所総評号 昭和14(1939).2.5
[複製]
【雑35-83】
双葉山の69連勝は、昭和14(1939)年1月場所4日目、西前頭3枚目・安藝ノ海(出羽海部屋、のち横綱)に敗れたことでストップした。展示したパネルは、その場所後に発行された「野球界」に掲載された、連勝ストップの決定的瞬間である。この69連勝の記録は、今日に至るも破られていない。

双葉山連勝ストップの瞬間

◇[双葉山連勝ストップの瞬間]◇

 

 

■昭和後期の名力士たち 〜テレビ時代のスター〜

第二次大戦後、相撲は再び苦難の時代を迎えたが、昭和28(1953)年5月場所からNHKによるテレビ中継が始まったこともあり、日本社会の戦後復興とともに活気を取り戻していく。特に、昭和30年代に入ると、栃錦(春日野部屋)・初代若乃花(花籠部屋)の両横綱に人気が集まり、「栃若時代」と称されるようになった。今日でも、この「栃若時代」を相撲の黄金時代と位置付ける人は多い。
栃錦・若乃花が衰えた後、昭和36(1961)年11月場所に柏戸(伊勢ノ海部屋)・大鵬(二所ノ関部屋)が横綱に同時昇進し、40年代前半まで続く「柏鵬時代」を迎えた。「柏鵬時代」は、昭和40(1965)年に部屋別総当たり制が実施されるなど、制度的近代化の仕上げとなる時期であったとともに、その末期にはハワイ出身の高見山(高砂部屋)が入幕し、今日の外国出身力士躍進の端緒が開かれた時期でもあった。
そして、昭和50年代前半には北の湖(三保ヶ関部屋)、50年代後半〜60年代には千代の富士(九重部屋)が強さを発揮し、それぞれの時代を代表する力士となったのである。

18)週刊少年マガジン 1巻34号 1959.11.15
【Z32-388】
「大ずもう早わかり教室」として、栃錦・若乃花ほか、当時の幕内力士写真が掲載されている。今日の少年向けコミック誌に、相撲の特集が掲載されることは珍しいことを考えると、この記事は、「栃若時代」における相撲の大衆性を象徴するものと言える。
19)[グラビア] 大相撲 8巻1号 1962.1
【Z11-474】
柏戸・大鵬が新横綱の場所を終えた後、相撲にゆかりの深い、熊本の吉田司家を訪問した際の写真。この時点では互角だった両者だが、次第に大鵬が優位に立つ。
なお、吉田司家は、江戸時代(寛政期)以降、横綱免許状を発行する権限を有していた。昭和26(1951)年からは、横綱審議委員会の推薦に基づき、日本相撲協会が横綱を推挙している。
20)[グラビア] 週刊読売 33巻34号 1974.8.10
【Z24-16】
北の湖が史上最年少(21歳2ヶ月)で横綱に昇進した際、「最年少横綱はマンガ好き」として取上げられたグラビア記事。この時代になると、力士にも「現代っ子」としての側面が現れてきたことが垣間見える。なお、この最年少記録は今日まで破られていない。
21)にっぽん人高見山大五郎 / 平林猛著
東京 : 講談社, 1981.2
【KD971-39】
外国出身力士として、初めて幕内最高優勝(昭和47(1972)年7月場所)を遂げた高見山の評伝。
本書は、高見山が日本に帰化して間もない時期に刊行された。「日本人以上に日本人らしい」と評された高見山は、関脇止まりであったものの、日本社会と文化的摩擦を起こすことなく、CMタレントとしても親しまれた力士であった。
22)[グラビア] 相撲 37巻12号 1988.12
【Z11-252】
昭和63(1988)年11月場所千秋楽、千代の富士の連勝が、同じ横綱の大乃国(放駒部屋)に敗れて「53」でストップした瞬間の写真。この一番が、昭和の本場所最後の一番となった。


参考文献

 

◇全体◇
図書
相撲、国技となる / 風見明著
東京 : 大修館書店, 2002.9
【KD971-G107】
相撲の歴史 / 新田一郎著
東京 : 山川出版社, 1994.6
【KD971-E158】
雑誌
相撲 47巻1号 1998.1 [他多数]
【Z11-252】
◇1章◇
図書
大相撲 : 財団法人日本相撲協会・特別編集 / 日本相撲協会企画・編集
東京 : 小学館, 1996.1
【KD971-G10】
相撲の歴史 : 堺・相撲展記念図録
〔堺〕: 堺・相撲展実行委員会, 1998.3
【KD971-G36】
相撲昭和史激動の五十年 / 高永武敏著
東京 : 恒文社, 1975
【KD971-15】
相撲社会の研究 / 生沼芳弘著
東京 : 不昧堂出版, 1994.2
【KD971-E161】
◇2章◇
図書
昭和大相撲騒動記 : 天龍・出羽ヶ獄・双葉山の昭和7年 / 大山眞人著
東京 : 平凡社, 2006.9
【KD971-H40】
激動の相撲昭和史 / 高永武敏 , 原田宏著
東京 : ベースボール・マガジン社, 1990.2
【KD971-E39】
雑誌
別冊相撲 4巻2号(秋季号) 昭和52(1977).10.10
【Z11-562】
風俗画報 417号 明治44(1911).2.5
【Z11-617】
◇3章◇

図書
日本相撲大鑑 / 窪寺紘一著
東京 : 新人物往来社, 1992.7
【KD971-E84】
横綱草紙 / 小島貞二著
三鷹 : 丘書房, 1984.12
【KD971-77】
戦後新入幕力士物語 1-5巻 / 佐竹義惇著
東京 : ベースボール・マガジン社, 1990.10-1994.7
【KD971-E48】
国技大相撲の100傑 : 宝暦から現代まで / ア企企画編集
東京 : 講談社, 1980.5
【KD971-37】
雑誌
大相撲
【Z11-474】
野球界
【雑35-83】
Van Van 相撲界
【Z11-1051】

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